いちねんの始まりの日。

もっとすっきりとした1日だと思っていたのに、ぜーんぜんだめだった。

もやもやもやもや、霧が晴れない。

 

病気ってなんなんだろ。

私は病気でいるということを、未だに理解できていない。言葉で伝えることはできるけど、自分の中では消化できていない。

すきなことをして、すきなものを食べて、すきなことを考えられる。ただほんの少し、それが自分でコントロールする力が弱いだけなんじゃないかな、と。いやなもやもやとした気持ちに突然なって、それのやめ方もわからない。ただ時間が流れて、その中でたまたま生活できるような気持ちになっている。

それってみんなじゃないんですか。

私だけじゃないでしょう。

なんでこんなことで、私は立ち止まって、いちいち悩まなくてはならないのだろう。

親戚のひとは、病院は病名をつけて治療をすることが義務だから、私が病気だということを決めるのは自分なんだよって。

でも、私にとってのふつうなんだよ。

これが毎日生きていた時間なんだよ。

それをいきなり病気なんです治療しましょうって、ちょっとつらいんですよ。

ずうっとそんなことを考えて、テレビをすこし観て、過ごしてた。

私は一体どう生きていったらいいんだろうな。

 

親戚のお家に、いとこのお友達一家が来た。

みんな小さいきゃっきゃしたこども。

私もこんなときがあったかな、思い出せないな。

楽しかったことが、最近上手に思い出せない。

ゆっくりとした時間を過ごしているのに、本当に無駄な時間の過ごし方をしているなあと思う。

 

また書きたくなる。たぶん。

ひとりになったら、また書こう。

なんだかここ数日ばたばたしてた。

気持ちが休まるタイミングはやはり夜で、朝ではないようだ。

はやく眠れと言われるのがこんなに辛いとは…

 

朝には一応小学生のお手本になるために、7時前には起きる。

夜通しぼーっとしていて気づけば朝になることもあれば、知らないうちに眠りについていることもある。

"帰りたい"と思える家のないことが、こんなにもしんどいなんて思ってもみなかった。

よくしてくれるひとがいるのに、こんなわがまま言うのは最低だということもわかっているけど、ひとりでゆっくり落ち込んでいたいときもあるんだ。落ち込んで落ち込んで、ぐずぐずと泣いて、いつの間にか息をしている生活がすこし恋しい。

私がいま生きるために必要なのは、ある程度の孤独なんだと感じているこの頃。

 

今日はたまたま本を読んでみようと思う機会があって、手にとってみた。相当などきどきと汗。

やっぱり、目で追うことがまだできない。

ショックだったけれど、まだできないというだけで、これからできるようになるんだって、思えるようになった。前進。

美容院にも行った。行ったことのないところ。

女の人を指名しておいてよかったけれど、喋らなきゃ喋らなきゃと思ってしんどかった。用意されてある雑誌も、読まなきゃ読まなきゃと思ってしんどかった。

ピアスもしていったのが間違いだった。カットしている最中にひっかかって落ちたこと、気づかれなかった。もう行きたくないな、なんて、思ったり。

もう今日は、ひとに気を遣ったり、自分のことでいっぱいいっぱいだったり、散々だった。

まあこれで年納めということで、やさしい気持ちで受け止めてあげよう。

 

あまり文字にしてもいい気持ちになれない。

どうしてなんだろう。

文字に嫌われたのか、文字を遠ざけているのか。

明日はゆっくり過ごせますように。

 

 

今日は歳の離れたいとこと年賀状を数枚書いた。

大進歩だ。私がお店でどきどきしながらペンやデコレーションテープを買って、何枚か続けて文章を書くなんて。書ける日がくるなんて。

その反動で今はなんだかこわいことしか考えられなくなってしまっているけれど、書けたという事実が、私をほんの少し勇気づけている。

 

なんだか落ち込んでしまっているけれど、やっぱり仕方のないことなのか。

ゆっくりゆっくり時間をかけて、落ち込むことに関しても受容しなければならないと考えると、また深みにはまってしまう。

憂鬱も幸福にも、底や天井がない。

なんでこんなにも生きにくい中、生きていかなくてはならないのだろう。

たった数枚の年賀状を書いただけで疲れ果てて、挙げ句の果てには死にたくなる。

ちょっと度が過ぎている気もするけれど、これが今の私には精一杯。

受容できるまでこれが続くことを考えると、ぞわっとする。本当に底なしだ。

 

最近またおなかが痛くて転げ回っている。挙げ句の果てには、女の子として恥ずかしいところまで裂けてしまった。もう死ぬしかない。

地面に顔を突っ込んで、ただただわーっと叫びたい。

なぜ、こんなにも落ち着かないのだろう。

 

親戚との生活にも慣れてきてはいるけれど、どうしてもそわそわしてしまう。

私はふたつの意見を聞くと、どうやら混乱してしまうらしい。どちらが正しいのか散々悩んだ末に、本当に選びとることができない。

情けないなと思って、また疲れて、目を閉じてしまう。

 

今日もはやく寝てしまおう。

どうせ朝がきたら、またあたまがおかしくなる。

 

好きにできる時間は減ったけれど、自分らしくいられる時間が増えた気がするこの頃。

年の暮れも近く、慌ただしい時間の中で、自分のペースを保つことは、今の私にはまだむつかしい。

 

今日はふと、思い出したことがある。

中学1年生のときのことだ。

合唱部に所属していたわたしは、たまたま帰らなくてはいけない用事があって、帰り支度を済ませていた。教室にはまだ数人の生徒が残っていて、お喋りしていたりふざけあったりしていた。

その中でぽつんと、テニス部の女の子が椅子に座っていた。私はその子とそこまで親しい仲ではなかったけれど、たまにお兄さんのことでからかわれて泣いていたことは知っていた。

その子のお兄さんは所謂オカマで、この辺りの田舎では珍しい性同一性障害とされるものを抱えながら生きていたひとだった。

からかわれることが辛いのであろうその子は、たまに学校をぽつぽつと休んでは、放課後やお昼の時間に、他の子の目を避けるように奥にある教室でプリント学習をしていたこともあった。

その子はきっと部活でもからかわれているのだろうな、大丈夫かな、部活行くのかなと、思いながら背中を見つめていたことだけは鮮明に覚えている。

声をかけてみようと思ったときに、同じ学年のテニス部の女の子たちが教室に数人で押し掛けて、その女の子めがけてグサグサと言葉を投げつけた。

みんなは頑張って部活してるのになんでお前だけは来ないんだ。

どうせ家に帰ってもオカマがいるんだろう、部活してるほうがよっぽど楽だ。

ラケットは持ってきているのに部活に来ないってことは、一応部活する気で学校には来るのか。そういうアピールはいらないからはやく来い。

なんでかな、部活抜け出してまで言いに来るようなことなのかなと思っていたら、その子が肩をぐっと掴まれて、引きずられそうになっていた。

今でもどうしてかはわからない。

私はその数人の女の子たちに、今日は体の具合が悪くなっちゃったから、その子は部活を休むんだって!みんな部活抜け出してきてると、先輩に怒られちゃうんだから、はやく戻ったほうがいいよ!と言っていた。

学年でもお友達の多かった私が、ひっそりと息を潜めていた子を庇うとは思わなかったであろう女の子たちは、そうなんだ、次はないと思うから、などと言って教室から出て行った。

そのあとは、なんで?どうして?と、その女の子は泣きながら私に抱きついてきた。

私はそのとき、どう言い返せばいいかもわからなかったけど、今日はもう大丈夫なんだよ、と声をかけた。

その日その子は、私のことをはるかちゃんは怖くないの?と聞かれたことも覚えている。

でも、なにが怖いのかわからなかった。私は、なんにも怖くないし、なにが怖いのかわからないよ、と返した。

 

いま、その子は元気だろうか。

お兄さんは自分のことを愛せるようになったのだろうか。

なんでこんなことを今更思い出したのかもわからないけど、今の私が同じ場所で同じことを言えたかはわからない。

そのことを考えさせるために、思い出させたのだろうか。

 

じわじわと寒さが身につき刺さるようになってきた。これからまたさらに寒さにさらされて生活していかなくてはならない。

私はお仕事に戻れるのかな。

ゆっくり考えるべきだったことは、もう私のことを急かすようになってきた。ずっとぴったりと、影のようについてくる。

逃げてきた人生だったと思う。

でも向き合わなければいけないことに、向き合ってこなかった私は、もう正面から受け止めることが怖くて手を伸ばすこともできない。

ひとりじゃないよと先生は言ってくれたけど、選びとるときはいつでもひとりだ。

ひとりで選びとることは、怖くてまだできないよ、先生。

だって責任とかいろんな石が私の上に乗っかって、全然動けなくなってしまいそうで怖いもの。

そんなことができるようになるなんて、想像もつかないよ。

 

夜にはあくびが出るようになった。

眠たいときに寝ておこう。

そうしたらまた、目を覚まそう。

きっとなにかできるようになったことを、ひとつひとつ探していこう。

生理痛で1日に2回もお薬をのんだのは初めてだった。床を這いつくばってお手洗いまで行って、戻ってきたらバイオハザードが始まっていた。今日に限っては、私はゾンビ役に適任だった。

 

ほんの少し前から書き始めているこのブログは、居心地がいいのか、なんとか続けられている。

書くこと自体はむつかしいけれど、何もできなかった1日を、"何もできなかった"とただそれだけ書くことで、"何かした1日"に変えられることが救いなのかもしれない。

そう思えない日が幸い少ない私は、なんだかんだ運がいいのかも。

 

"なにか"したから偉いのか。お仕事してることが立派なのか。ねーさんとお話ししてはうーんと少し悩んでしまうけど、お仕事をしていることは、お仕事が少しの間でもできていた私にとっては、本当に本当に立派に思えてしまうんだ。きらきら眩しくて仕方がないんだ。

それだけが立派というわけでないけれど、社会という大きな環の中で、ひとり背筋を伸ばして生きていくことへの憧れと呪縛は大きい。

あの頃に戻りたい、はやく"ふつう"に働けるようになりたいという気持ちは、留まることを知らぬまま加速してしまう。

焦りという大きな負の栄養が、気持ちに悪影響を及ぼすこともわかってはいるけれど、誰よりも自分がいちばんはやくよくなりたいと思っているんだから、仕方ないのかなとすこし諦めモード。

どうしたら焦りと希望の割合を調節できるのだろう。どこにそのネジがあるのだろう。またそんなことを考えては落ち込んでしまう。

考えても答えがわからないし、考え過ぎてもよくないことは百も承知なんですけどね。

 

私にもサンタさんがゆうパックでプレゼントを届けてくれた。

お手紙つきのプレゼント。

なにか匂いがしないかなと思って、お手紙をくんくんしてしまう癖はいつになってもなおらない。きっと、書いたひとの痕跡をどこかで辿ろうとしてしまっている。

ゆっくりと着実に消えていく匂いなんて、私の手元に届く間に確実になくなっているはずなのに。

彼の匂いはどんなだったかな、そこにあるんだ、絶対するんだと、必死にくんくんしては、なんだか切ない気持ちになった。

私にはプレゼントとみじかいお手紙というふたつが届いたけど、彼がこれを手に取るまでの時間や、ペンを握りしめていた事実がうれしい。

プレゼントを選ぶときの顔や、宛先を書いているときの顔。

ペンを手に取り何を書こうか少し考えてる時間や、私に届くまでの時間を彼がどんな気持ちで過ごしていたか。

自意識過剰が過ぎるのもわかっているけど、隅から隅までうれしいものでした。

ありがとう。

 

たまに体や気持ちが思うように動かなくて、私は私に呆れてしまう。

どうしてこんな風になるまで、自分が苦しかったことに気づかないふりをしていたんだろう。

私は私に蓋をして、ただ見えない場所に置いていたことを、今更後悔している。

でも、お友達や通っていた学校の先生、親戚、彼、みんな私に手を伸ばしてくれる。うれしいな。私はその手をとる資格があるかな。わからないけど、ただうれしいな。

時間がかかってもただひとりひとりに、しっかりとありがとうねって言いに行きたいな。

 

そのときまではしっかりと命を握りしめておこう。

 

 

 

 

やっと一息つける場所に来て、私の中の暴れん坊はようやく大人しくなった。

気は遣うこともあるけれど、随分と口を動かす機会が増えた。

 

ひとと話すことって、たべものを食べるみたいだ。咀嚼して飲み込むという行為は、まだ不器用なのか、ときどきひっかけて苦しくなることがある。

会話するということって、エネルギーを消費する場合と、エネルギーを分け与えてもらえる場合があるんだなあと、しみじみと感じた。

たわいもないお喋りでも、すり減らして疲れてしまうとき。

言葉数の少ない相手とのお喋りでも、こころになにか点滴をしてもらえたような気持ちになるとき。

栄養のある言葉ばかりで溢れている世界ではないけど、今の私には栄養のある言葉でこころを満たしてあげることが大事なんだろうな。

 

私は卑屈なのか、言葉の裏の裏の裏くらいまで考えてしまうことがある。病気だからではなくて、前から。思考の癖というか、認知の歪みがもともと強いのかもしれない。

ひとと話しているときでさえなんだか怖いなとか、このひとの考えていることはもっと深いところにあるんじゃないのかなとか、疑ってしまう癖。

それってとっても失礼なことかもしれないけれど、相手のことを信じようとする気持ちが弱いのかもしれない。

ひとりでお買い物に行っているときでさえ、レジのひとの顔色を伺ってしまうことまである。私は何か失礼なことをしてないか、小銭を出すのが遅くていらいらされてないか、なんて。

私って随分と用心深く生きていて、もしかしたら縮こまりすぎて生きづらいのかも!と気づけたのはほんの少し前のこと。

これからもうちょっとだけ大人になる時期にさしかかって、"すこし"手を抜きながら生きてもいいのかなとも思う。

 

今日はなんだかずっとあたまが痛かった。

気持ちやこころが壊れてきてからは、頭痛というものが恐ろしくて仕方がない。

たくさんのいやなことが、あたまの中でずっと飽きずにダンスをしているみたい。

それくらい痛みとつらい気持ちに押しつぶされそうになる。

どうしてなんだろう。

私は自分で考えているときに、なにかに邪魔をされるとそっちばかり気になってしまって、何もかも手につかなくなってしまう。集中の糸が突然、はさみで断たれる感覚。その後に襲ってくる猛烈な焦りと怒り。こうなるともう、とりかえしがつかなくて、自分でも汗をかきながらやり過ごすしかなかったこともあった。

最近はあまりないけど、思い返せば中学生のあたりから、そんな節があった気がする。

そうすると、"考える時間"というものが、私の中ではいちばんの幸せな時間なのかもしれない。

考えるだけでなにものこらない、なににのこすこともできないその贅沢な時間は、今の私にはあまりにも少なすぎるものかもしれない。

 

"書く"ということも、実は少し苦手だったりする。

私は恐る恐る指を動かしては、またこれでもない、ああでもないといらいらしながらやっていることが多い。

書き終わるとすっきりした感覚はのこるけれど、紆余曲折あってのものだ。そこにたどり着くまでは、焦りと怒りと少しの悲しみがまじっている。

最近は少し気持ちが落ち着いている。

悲しい気持ちになることはあるけれど、その悲しい気持ちが仲のいい友人のように、私にぴったり寄り添っていてくれる、そんな感じだ。

 

私も少しずつだけど、自分の気持ちと付き合ってあげられるようになってきている。

時間はかかるかもしれないけど、その付き合い方を考えてあげられるようになりたい。

母親が暮らしているこの家には、通い猫がいる。

以前は窓から煮干しをすっと投げると、草むらに隠れながら食べるような、用心深い猫だった。今はというと、母親がキャットフードまで買ってきて、玄関にニャーと鳴いてきたら、はいはいごはんだよと、お皿を用意してあげるほどまでに懐いている。

私がその猫と初めて出会ったのは去年の8月。

倒れ運ばれ当分安静にしていなさいとの命が下り、秋田に帰省したのはじんわり蒸し返す夏だった。

まだ家族が4人ひとつ屋根の下にくらしていた頃、確か猫を飼っていたことがある。

なぜかそんなことがあったなと思い出して、その通い猫に声をかけた。

おいでおいでと手招きすると、ニャーと鳴いて、こちらへ迷いなく歩みを進める。初対面という概念がないのかそれともかき消されたのか、あしに擦り寄り、2回目のニャー。

ニャーは魔法だ。どんなに低い声でも、どんなに高い声でも、かわいいなと思えてしまう魔法。

その日から、その猫のことを"おやつ"と呼びはじめた。

"おやつ"は私がいちばんすきな響きで、いい匂いのする、幸せな気持ちになれる言葉だ。

"3時のおやつ"、"深夜のおやつ"、"今日のおやつ"。

なんていい響きなのだろう。

 

春夏秋冬、おやつは玄関の前でニャーと鳴いては家のものを呼んでいる。

ごはんがほしいのか、お水がのみたいのか、それとも誰かにふれてほしいのかは、わからない。

ただニャーという魔法の言葉で、私や母親や同居人の気持ちをくすぐってくる。

寂しいとき、泣いてしまったとき、私は時々おやつのことを呼んでは、膝の上にのせる。

ただ膝の上にのせて、そこにあるあたたかさを感じては、少し呼吸を整える。

おやつは甘えん坊なのか、私のあしに爪を立て、踏むということを繰り返しては、少しここで眠らせろと言わんばかりに丸くなる。

私もおやつも都合のいい関係を作り上げているんだなと、書きながら思った。

 

冬のおやつは少しふくよかになり、雪の降る中、軽やかなステップを踏むように私のもとへ歩み寄ってくる。

これはきっといき過ぎた妄想で、ただ寒いからはやくあたためろと、おやつは駆け寄ってきているのかもしれない。

外にある物置で雨や雪を凌いでは、朝になるとまたニャーと鳴いて、元気に"出社"するおやつ。

彼も彼なりに猫社会で生き抜くため、命懸けのバトル(爪を立てての喧嘩が主)をしてくる。

時々怪我をして帰ってくるおやつに、大丈夫?と声をかけても、クールにニャーと鳴いてしまうのだから、きっと彼にとっては擦り傷程度のものなのだろう。

ごはんを食べて物置で丸まり、ぐっすりと眠る。

私に足りないものをひょいと手に入れられた彼に、私はきっと嫉妬している。

 

冬はつめたいから、あたたかくする術を教えてくれる季節なんだと思う。

上着を羽織ったり、マフラーを巻いたり、長靴を履いたり。

さむいねと言う人に、そうだねと返す言葉だったり。

凍ってしまったこころを、小さなろうそくを灯して見つめながら、とけるのを待ったり。

冬眠、という言葉があるくらいだし、冬はただ黙って過ぎるのを待つのが正解なのだろうか。

そんな問いかけにも、冬はじっとこちらを見つめているような気がする。

冬だから、こんなにも慌ただしくなったり、立ち止まったりすることが多いのか。

雪が降り積もる度に答えがなくなる。

さっきまで書いて、そこにあった方程式は、そこにはもうない。白い雪で隠されてしまう。

春になったら雪と一緒にとけてきえるものを、私は必死で見つけようと足掻いている。