先週はお休みせずにお仕事へ行きました。

水曜日の後ろ2時間は有給をとって、病院の診察にも行きました。あと年金事務所にも。

 

診察のときにはやっぱり、携帯のメモが役立ちます。からだ、きもち、生活していて不便なところとみっつに分けて、不調を書き出します。これも私には難儀です。お仕事をするようになってスケジュール管理をするようになりました。それのために使うスケジュール帳その日の体調を書きます。例えば腹痛とか、不安とか、一瞬でも痛かったり感じたりすると書きます。忘れないうちに書いて、病院の前日には携帯のメモにまとめます。2段階で漸く完結する作業です。私にはまだまだ、効率的にものをこなすことがむつかしいようです。

 

最近は母親と話すようになりました。

度々、私があまりにも生意気なくちをきくものだから、カチンときていることもあるようです。

もうこどもじゃないのだから、ひとりで生活するべき、していることが当たり前、というのが母親の考えのようです。

私もそれは一理あると思います。申し訳ないと思いながら生活をしています。ただ、なぜ申し訳ないと思いながら生活をしなくてはならないのか、わかりません。

母親の子である以上、私なら、こどもが何歳になっても具合が悪いなら面倒を見ます。でもこれは私の中の常識です。そう思うから、私は最近になってこどもを授かってみたいという気持ちがなくなりました。今の私のようなこどもがうまれたら、私は面倒を見きれないからです。辛い思いをさせたくありません。現に私が辛いからです。

母親は、私がここにいることがそんなに嫌ならひとりで生活していけばいい、と言いました。私は、できたらもうとっくにしている、と言いました。できないのは誰のせいだと言いたげな母親を私は見逃しませんでした。そうですね、私のせいです。

私がもう少し強かったら、こんな風にもならずに他人にも自慢できるような娘になっていたかもしれません。育て方を非難することはもうやめました。育ち方が悪かったと思うことにしました。

あなたのようにもう少し面の皮が厚かったら、私は親戚にまで後ろ指を指されても、ご近所からひそひそ話しされても、どうってことなかったのでしょうね。

 

ここのところ、私は小さな頃から母親というものをあまり知らないで生きてきたのだと思いました。

小さな頃はもちろん可愛がられていたでしょう。弟が生まれて、きっとやきもちもやきました。でもそれくらいからですかね、母親がひとりの女のひととして生きているんだと思ったのは。

離婚してからは夜が怖かったです。知らない男のひとが、小さなアパートに出入りしていたこと。母親が度々いなくなっていたこと。お引越ししてからもそうでしたね。

でも、お料理を作って、学校にも通わせた、それだけを母親の務めと思っている私の母親に、そこが違うよと言っても伝わりませんでした。私はいつから、母親と距離を縮めることをやめたのか、覚えていません。

 

父親とは離れていたぶん、嫌な思いをすることがなかったので、今は仲良く、度々お出かけをしています。きっとそれも気に食わないのだろうな。

 

お家を出る準備をしなければいけません。今日を生き延びたら、明日が待っています。目が覚めたらもう明日なのです。

それに感謝しなくてはならないと、誰が決めたのだろう。

どんよりと沈んで、泥のように浮かぶことのない気持ちを抱えたまま生きなければならないひとは、なにに感謝すればいいのでしょうか。

希死念慮に押し潰されず生きることは、そんなにえらいことなのでしょうか。

傍観していた私は、生きていてほしいと思うことはあっても、生きていたいと思うことが少なくなりました。

きもちが動かなくなってしまったらどうなるのだろうという恐怖を抱えたまま、眠って起きたら当たり前のように明日が顔を出しています。ゆっくりとおひさまに殺されていきます。

自分を大切にしなさいというひとほど、無責任なひとはいません。私は無責任だった。

大切にできないなら、かわりにそっと、まもってあげられるひとになりたかった。

 

きっと私も母親にまもってもらいたかった。

今日もお休みしました。お休みするくらいなら辞めたいです。

 

今日は朝起きて、おみそ汁ものみました。母親のパートナーの鼻をすする音で何か糸が切れました。はやく逃げろはやく逃げろって、頭が必死に訴えてきたのに、私は我慢しておみそ汁をのんでいました。だけど逃げなかったから、涙が止まらなくなりました。

どういう理屈でこんな風になってしまうのか、私も正直に言うとわかりません。とりあえず、頭にのぼることがあると、それでパンクしてしまうのです。他のことが考えられなくなって、そのあと涙が止まらなくなって、終いには何も手につかなくなります。

 

"お仕事をしている自分"は、私の中の理想なので、本当にお休みしたくないです。まして2日連続でお休みなんて、もう死にたいです。今日は電話したくなかったので、上司にSMSを送りました。この場合の"したくない"は、わがままと捉えられても仕方ないと思います。非常識です。ごめんなさい。ただ送ったはいいけど返信がなかったので、渋々電話しました。私のメンタルや体調に理解のある職場です。お休みすることはさほど難しいことではありません。甘えっぱなしでごめんなさい。

 

洗面所で歯ブラシを手に取ることもできず、お化粧もできず、情けないです。

今日は午前中ずうっと寝ていました。私は誰かにいまの私を打ち明けたかったです。以前の職場でお世話になったカウンセラーの方に連絡しました。でもだめでした。色んなものに感謝するだけでいいんだよと言われました。いま生きていることに感謝することでもいい、のだそうです。何も感謝なんてしたくないです。私はいまが苦しいし、これに感謝なんて出来たらこんな風になっていません。産み落とされたことに後悔すら覚えます。

勇気を振り絞って祖母にも電話しました。初めて具合の悪いときに直接話し合いました。私には深く考えるなとか、開き直ることの重要性を教えてくれました。わかっているけど出来ないんだよと、その場で言えないお利口な私がいます。だから、言えませんでした。

とうとう自分の若い頃いくら苦しかったかを話し始めたときに、ようやくくちがきけました。足のないひとに歩けと言えるのか、と聞きました。私はいま元々あったものがなくなって、出来ないことが増えて、不自由な生活を送っていることを、あまり直接的に話すことがなかったです。良い例えではなかったと思います。私はいま足がなくなってしまったとか、歩くことが困難な状態だから、それを改善するために病院にも通っている。足という例えは、私の中で気持ちや心の健全な状態をあらわすもので、それを自分の中で作り出すことが困難(たとえば足を切断したら同じ足が生えることはないということ)だと伝えたかったのです。自分で作り出すことができなくなっているから、お薬をのんだりリハビリしたりしています。足がなくなってしまった、あるいは動かすことができなくなってしまったひとに、最後は自分の気の持ちようだと言えるのかと聞きました。

祖母は私の場合はできると信じていると言いました。いまの私は他人の期待に応えることができません。帰ると言って、生きた心地のしない家に帰りました。私は出来損ないだとか、他所にははずかしくて出せないとか、思われてるかもしれません。育ち方が悪くてごめんなさい。

 

ひとしきり泣いて、一生懸命シャワーを浴びました。そのあと一生懸命髪を乾かしました。そんなことにすら最大限の力を注がなくてはならないのです。だから優しくしてとか、見逃してとか、思ったことはありません。ごめんなさいとしか思いません。

 

私はブログを書いて、そのあとどうしようとか考えない生活を送りたいです。書いたら眠って、当たり前のように起きて、お仕事に行って、たまにちょっとムカついても、ごはんを食べて元気になろうという思考回路になりたいです。

以前はきっと、そういう私だと思われていたと思います。にこにこしていて、元気で、ちょっと怒りっぽいけどみんなと仲良くしている、そういう子だと今でも思われているかもしれません。

最後まで期待に添えることができず、ごめんなさい。演じていたわけでもないけれど、それができないです。

 

泣きすぎて頭がいたいです。こんな風に育ってしまって、ごめんなさい。

7月から夏季休暇がとれるので、1日とりました。のこりは4日です。7月から9月の間にとれるのですが、夏季休暇だというのに楽しい時間を過ごすことができなくて、寂しいです。

 

昨日、久しぶりに被害妄想というものが強く出ていると感じました。上司が、ちょっと来て、と言われて他の職員とお話ししていたときです。私は、しっかりと目を通さなくてはならない書類が多く、入力作業もしなくてはならないにも関わらず、そちらが気になって気になって仕方がありませんでした。

何を話しているのだろう。私はまた何かしてしまったのかな。

ずうっと気になってしまって、お仕事が終わった後も、私は何かしたのか何をしていたのか考えていました。

帰ってからは冷麺とカップ麺を食べました。くちに何か入っていないと、気持ちがもやもやとしてしまっておさまりませんでした。ごはんやお菓子、飲み物をずうっとくちに入れていました。

 

最近はいつものことになっているのですが、朝目覚めることが容易じゃなくなっています。こどものときにお布団から出られなくなって、母親に叱られていたことを思い出します。

最近は下から呼びかけられて、それでも降りて来なければ電話やメッセージが届きます。もうわかっているのです。しっかり起きて、何か食べて、身支度を済ませてお仕事に向かいたいのは山々なのです。

夜眠れなくて、どうしようもなくそわそわしているときは、誰か親しいひとの声を聞いて、安心したいのです。あなた方の夜の営みは私にはストレスでしかありません。小さい頃から私はそれを聞いて育ちました。もう何も聞きたくないのです。

 

今日は私の中の全力を出して起きて、夜のうちに選ぶことのできたお洋服を着て、居間でぼうっとしていました。おみそ汁をのんで、歯を磨いて顔を洗いに洗面所にもいきました。ただ、そこで鏡を見てまたぼうっとしました。何もできないのです。立っていることもしんどいのです。身体的にではなくて、ただただ立っていることさえ精神的に苦痛なのです。

お仕事に行くときのバッグを手にとって、夏季休暇をとると一言伝え、8時過ぎまで横になっていました。涙が出ました。

職場にお休みする旨を伝えて、お昼頃まで寝ていました。眠るということしか、逃げ場がありません。意識を遮断することでしか、安心できないからです。安心というよりも、不安や悲壮感や絶望を感じたり考えなくて済む、という方が正しいかもしれません。

 

午後は友人にメッセージを送ったりしました。今日はお休みしたよ〜へへへ、とか。全然へへへじゃないです。消えてしまいたいなあと思います。

夕方になっても母親たちが帰って来なかったので、お料理しようか迷いました。でも、思考能力が低下しているときの創作物の出来は酷いので作りませんでした。

 近くのお弁当屋さんにお弁当を買いに行きました。今日出勤時に着るはずだったお洋服を着て。

何をしているんだろうと笑えてきました。本当は泣いていたのですが、笑っていたかったです。

 

遠くでこどもの叫び声が、ここのところ毎日聞こえます。は???と思うひともいると思いますが、本当です。私の隣のお家は幼児虐待疑惑をもつ家庭です。時々実際に聞こえていたその声が、頭の中で反芻しているのだと思います。実に不愉快です。

 

遠くに行きたいなあと漠然と思い立つことがあります。遠くに行く気力や体力がないことを思い出して、すぐに落ち込みます。

 

何も楽しくない。

今日は、数日続いた残業から抜け出せた日だったので、退勤してかららーめんを食べに行きました。

小学生の頃から通っていた、営業時間は18時までという古風で小さな食堂です。当時お店を切り盛りしていたおばあちゃんはデイサービスに通っていて、今は娘さんとお孫さんでひっそりと営業しています。ひっそり、と書きながらも、お昼は注文してから30分も待たされたりする人気のお店です。

そこの娘さんはちょうど私の母親と同じ世代くらいで、私のことを小さな頃から知っています。私の母親や、祖母、叔父、私の家庭環境も少し知っています。

今日は閉店間際に駆け込んで、お客は私ひとりでした。10分ほどで出てきたらーめんは、きっと、確かに、いつも通り美味しかったのです。

そこのお店の娘さんに、私の母親は元気か、と尋ねられました。いつも通りだと答えました。相談もしていないのに、私の生活についてアドバイスをされました。外に目を向けてみてはどうかとか、家から出るとか、母親と離れるとか。求めていないものをこんなにも投げ渡されることが、こんなにも受け止めきれずに辛いものかと、久しぶりに思いました。

過去は変えられないのだから、これから先を見据えなければならないことも、私自身わかっています。わかっているけれど、過去に引っかかっているのが私なんです。お薬をもらって、そこに引っかからないようにしているんです。いつもなら楽しめることを、今は楽しめないので、楽しめるようにするお薬をもらっています。

大好きならーめんなのに、なんで嫌なお話をしなくちゃならないのだろうと、思いました。

善意が鋭い棘のようでした。

その方はきっと、私のことを救おうとか、もっといいことがあるよとか、優しさで包もうとしてくれたのだろうと思います。だけど、私には涙が出るほど辛いものでした。

 

自宅に帰ってからは陰鬱でした。重ねて書き並べたいほどです。例えるなら頭痛の続く梅雨、大きな音を立てる台風、曲がったストロー、ちくちくとしたセーター、伝線したストッキング、セロリの後味、母親の声、男性の声、毎日飲まなければならないゴミ屑のような粒。

私の嫌いなものだらけ。ひどく嫌な気分でした。当分行きたくないお店です。私が所謂"元気"な状態でなくては、ボディブロウをしかけられるからです。

 

お薬を飲まなければやっていられない、というわけではないと思います。半分気休めなのではないかと、自分でも思います。

病状が寛解に向かっていることを他人にも報告したり、提示したりしないままだと、私はいつまでも弱者なのでしょうか。

 

なんだかなあ。

誰のために"良くなる"のでしょうか。

私のためなのか、他人のためなのか。

私を心配してくれている他人を満足させるための治療なら、もういっそのこと死んでしまいたいです。何言ってるんだよと笑われてもいいです。

ブログを始めて半年が経ったそうです。

6月もいよいよ半ばを過ぎて、例年よりも遅い梅雨が始まりそうなこちらは今日、30度を超える真夏日になりました。いつもは飲まない冷たいコーヒーが、久しぶりに飲んだらとても美味しかったです。

 

ここ何日かは出血もなく、いたって"ふつう"に過ごしています。

ただ、数ヶ月以上前から続いている頭皮湿疹が治らない。濃い色のトップスを着たときに、かさぶた(絶対にフケとは言わない)が時々落ちて清潔感がなくなるから、明るい色のトップスを着ています。以前もらったお薬を朝晩擦り込んで、治れ治れと念じています。

傷が治りにくく、外部刺激からの身体反応が強くでていることから、免疫がだいぶ落ちているのかなあ、と自分を考察しています。体が無言の圧力を精神にかけてきているのだなあ、と。

困ったもので、これだけ症状が現れると根元を断つことしか治療法がありません。根元は言わずもがな精神的負荷です。頭皮湿疹のお薬も、精神的負荷が今の段階からもう一段階上がると、効かなくなるなあと思っています。

よくよく考えてみたらこれだけ身体不調が現れているのに、何にも自分に気遣うことのなかった自分にドン引きです。よくもまあこんなに放っておけたなと思います。後悔もします。でも、どこからが正当な治療や休養を要する期間で、どこからが甘え、サボりなのかもわかりません。こればっかりはお医者さんに委ねるしかないのですが、私は自分がどれくらい辛いのか、過ごしにくいのかを伝えることが酷く下手です。つい先日の診察では、今までの不調をぜんぶ箇条書きにして提出しました。そうしたら何種類かのお薬が、一回り大きな粒になりました。大きさは変わらずに回数が増えたものもあります。もっと早くこういう伝え方をすれば良かったなと思いました。でも、伝え方まで考える余裕がないのが今の私なんだなと、また自分を把握する材料になりました。

 

私の好き嫌いは、どこまで考慮すべきなのだろうとも考えたりします。このひとはあまり好きじゃないし、ずっといると具合が悪くなりそうだな、とか。このひとはなんだか安心できる、嫌いじゃないな、とか。ただ単に好き嫌いではなくて、好き嫌いが私自身の体や精神にどれほど影響を及ぼすかを判断しなくてはなりません。それは自分勝手に見える尺度でもあって、他人から見たら単なるわがままで、社会的には非常識だったりすることもあると思います。

サーモグラフィのように可視化できたらいいのに、と思うこともしばしばあります。私の思いは全部見えてもいいです。これ以上他の人に見えないところを心配されたり、勘繰られることが嫌になったからです。きっとこれからも、そういうことがたくさんあると思います。だからもう、そういうことを考えなくてもいいように生きられたらいいのにな、と思います。

 

同じようなことをこねくり回すようや文章は好きじゃないと、ねーさんに言ったことがあります。きっとそれは、自分を見ているようだからだと思います。同族嫌悪というものでしょうか。

今日は久しぶりにざーっと書きました。殆ど考えないで書きました。きっとあまり好きじゃない文章です。

だけど、この日はそう思ったという印を残せて良かったな、と思えるようになりたいです。

前向きになりたいのではなくて、自分に優しくあれるようになりたいのです。イコールではありません。このままの私を黙って受け止めてあげる私になりたいです。

婦人科に通うようになって1ヶ月近く経つ。月のものやら婦人科的出血は、依然として突然襲ってくるから困る。

腰回りの怠さ、下腹部痛は、ほぼ毎日私の行動を制限してきた。私のからだはいつから私のものじゃなくなったのだろう。

 

新しいお仕事も、始めてからもう少しで3ヶ月が経とうとしている。ベッドから出られなかったり、起きてもお手洗いから出られなかったり、体中から汗が吹き出してきて、月に2日ほどはお休みしてしまう。本当はお休みしなくては頭がおかしくなりそうなほど、気持ちが休まらない日もあるけれど、平気な顔して学校に向かう。

どうしてこうも"健常者"のふりをしなければいけないのだろう。具合が悪いということを隠さなければ、生きづらい。親の顔色さえ伺わなければならない。気持ちの不調というものは、はたからは見えづらいからタチが悪い。私の欠勤日は、だいたい母親から見たらサボり。顔色さえ悪ければいいのになと、目の下のクマを眺めながら考える。

 

睡眠導入剤が1回2錠に増えて眠りやすくなったいいけれど、2年前と比べると眠ることがむつかしくなってきた。眠れなかったら2錠のんでもいいとお医者さんから言われたとき(当時は1回1錠だった)、あまりにも眠れなすぎて4錠のんだ。これは所謂ODで、今考えても馬鹿だったなあと思う。次の日は信じられないような吐き気と突然の眩暈で死ぬかと思った。アクセルを踏む力さえ迷子になって、少し眠ってから運転した。

休職中のODならまだしも、今はフルタイムで働いている身で、不必要な薬物摂取は周りに迷惑をかけると、身を以て知ることができた。

 

お休みの日は父のことをお買い物に連れて行ったりする。楽しい時間でもあるけれど、歳をとった父をみていると、ぎゅうっと胸が苦しくなる。

父は痛風や関節痛のせいで脚が悪くなって、お買い物のときはカートを押す。前は年寄りが使うものだと言ってカートなんて触りもしなかったけれど、今はカートを押しながらゆっくりと歩いている。私がいつも通り歩くと、父は30メートルくらい遅れてついてくる。それからは意識してゆっくりと歩くようになった。

生活保護を受けるようになってからは、病院にも比較的に通いやすくなったと言っているけれど、病院嫌いなのは変わらないからどうしようか悩んでいるところ。

今日は何曜日なのか、何日なのか、どんなことをして過ごしたのか疲れて覚えていないと話していた。ただの健忘なのか、脳の疲れが何らかの疾患をもたらしているのかは素人目にはわからない。ただただ心配しているだけの私は、役に立たないなあと思う。お医者さんにでもなって、知識があればしっかりと父を支えてあげられたのか。

 

梅雨にもまだ入らずに、ぐずぐずと晴天や薄曇りの日が続いている。天気の良さは、私の無力さを痛感するから嫌いだ。私には何にも出来ないよ、と言われている気がする。被害妄想だということもわかっているけれど、"辛さ"という事実がそこにただじいっと居座っていて、私を通せんぼしている。

どうしようにも、どうにもできないことも知っているから私もここに居座るしかない。ただ居座るだけの意地と体力が備わっていればいいのにな。

 

ブログを1ヶ月書いていませんよ、というメールを受け取って何日経ったのだろう。書けないのだもの、仕方ないでしょう。ただの通知がこんなに辛いなんて思わなかった。

書いたらまた見返せるようになるといいのに。

私はどこに置いてけぼりになったのだろう。

迷子になったことも、どこで迷子になったのかもわからない。

書かずにいた間、ここでは桜が咲いて、今に散ろうとしている。眩しい緑の葉もちらほらと見えてきた。桜の花は春を感じさせるけれど、寂しいような気持ちにもさせる。どうして散るということは、こんなにもひとを悲しくさせるのか。

 

お仕事が始まってからはいちにちいちにちが目まぐるしく過ぎていって、すっかり夜になっていることが多い。

毎日母から家にお金を入れなさいと言われても、体調がガクンと下降線を辿ることが少なくなってきた。ただずっと焦る気持ちは残っていて、私の本当の気持ちはすみっこで膝を抱えたまま。

 

2校の歓迎会が終わって、たまたま父と会う機会があった。そのときは父の友人も一緒で、「なんだか(父の様子が)おかしいから、病院に連れて行ったほうがいい」と何度も言われていた。

よく見ていなくてもわかるほど、足の動きが固かったり、喋り方はどこか舌が置いてけぼりのようだった。脳梗塞なのかもと思って、次の日は絶対病院に連れて行くよと何度も電話して、お仕事もお休みすると上司に連絡をした。

父は案の定、次の日の朝から電話が繋がらなくなっていた。私はどうしていいのかもわからずに、母のいる家でじっと泣いていた。母からどうしたどうしたと声を掛けられても、どのように答えたらいいかもわからずに、しばらくぼうっとして、正直に父の状態を話した。

母はため息をつきながら、父の友人に電話をしたようだった。私が福島でのお仕事を辞めて、せっかく地元に戻り新しい職場で落ち着き始めたのに、こういうことで私の気持ちを乱さないでほしい、というのが母の気持ちらしい。母はそれを私にも話してくれた。

けれども、ぽっくり勝手に死なれたらもっと嫌な気持ちになるし、心配になるときはしっかりと心配させてほしい。いくら離婚してお互いが別々に生活していたとしても、私にとっては何が何でも父と母だから。嫌いでも好きでも、心配になるときは嫌でもなると、私も今回ばかりはそれを素直に話すことができた。母からは、とりあえず病院にでも連れて行って、自分を落ち着かせなさいと言われた。

父の家やハローワーク(就職活動中のため、たまに通っているらしい)、よく行くスーパー、地元の大きな病院に車を走らせた。家には不在。ハローワークやスーパーには顔見知りもいたから、電話番号を伝えて、来たら電話をもらえるようお願いした。病院からは個人情報保護の問題で難しいと何回か言われたけれど、詳しい症状や通院歴があることを伝えて、なんとか連絡をもらえるようにお願いした。ここ10年ほど大きな病院には通っていなかったようで、痛風持ちの父はどこの病院に行っているのだろうと、また心配になった。

探し回って3時間、自宅付近の道端で自転車を押している父を見つけた。足が既にもつれていて、1歩前に進むのも大変そうだった。自転車もあるからと、頑なに車に乗ることを拒否したから、父の自宅の前で車に乗って待っていた。

どうしても検査してほしい、入院をお願いしているわけじゃない、就職するなら健康じゃなきゃ受け入れてもらえないと、何度も諭した。それでも父は70も近いから、ガンと動かず病院には行かないの一点張りだった。ただ私が救急車をこの場で呼ぶか、私が刃物か何かで刺して警察を呼ぶか、素直に私の車に乗るかの3択しかないと本気で脅したら、しぶしぶ私の車に乗った。

探し回っていた中のひとつの病院に現状を説明して、父には伏せて急患扱いで診てもらった。車の中でそれとなく聞いていた今の体の具合を、看護師の方に細かに伝えると、すぐに検査してくれることになった。血液、肺機能、心電図、レントゲンを一通りやっていく中で、父はもうぐったりとしていた。待合室で座っていたのは正味1時間ほどで、その間に何度も帰ろう帰ろうと懇願された。私はこんなに頑固になったことはないくらい、もう少し待とう、これでよかったらごはんを食べに行こうねと、辛抱強く背中をさすった。

結果が出たのは午後2時を回った頃だった。話し方や歩き方からみて、脳機能に大きな異常がないということなのか、追加の検査はなされなかった。今回わかったことは、肝臓の機能が著しく低下していること。長年煙草は1日4箱なんて生活をしていた割に、肺にはなんの影もなかった。ただ、焼酎を1日1リットルペースで飲んでいたことがかなりまずかったらしい。ビールが大好きだった父は、痛風を患ってから焼酎にシフトチェンジした。それがかなりのストレスで、摂取量もかなり増えたようだった。肝硬変の一歩手前までいっていたようで、強い倦怠感、下痢などはそこからきている、との説明を受けた。最後には、アルコールとここでお別れしなければ命を手放すことになる、肝臓の疾患で亡くなるとすればかなり苦しい目にあってから亡くなる、ということを厳しく言われた。父は案外すんなりと、そんなに肝臓が悪いのですかと、事実を受け止めていたようだった。ただ、胃潰瘍イレウスで入院歴があるのを考慮して、胃カメラをしておいたほうがいいのではという提示があった。父はもう食い気味にいらないですと答えたけれど、私は飲め!飲め!と大声で怒鳴りつけた。お医者さんは笑いながら、いらないというひとには無理やりできないですから、と言っていた。

お会計を待つ間、肺機能は問題ないと言われたものだから、煙草はいいのだろうとそそくさと駐車場まで行った。私はなぜかホッとしてしまって、待合室でひとり静かに泣いていた。

今すぐに死んでしまう気がしていた。父が亡くなったときの顔が、なぜか目の前に浮かんでいた。目を閉じているだけの、なんの感情もそこにはないような父の顔。そのようなことは初めてだった。一晩中泣いて、頭が痛くて、ほとんど寝ていなかった。だから、父が亡くなるわけじゃないと少し安心したのだと思う。

帰りの車中は、お酒を飲んで死にたいならそれでいいけれど、死ぬまでの間は死ぬより辛い思いをするからねと念を押した。父もふざけて、酎ハイでも煽って死のうか、それともビールがいいのか、なんて話すくらいには明るくなっていた。本当にふざけた奴だ。病院に行く前は呂律も回っていない、すぐに息切れをして何かにつかまって座らないといけないくらいだったのに。このひとが亡くなったらきっと悲しいのだろうなあと、しみじみと思った。

 

そのようなことで私の4月は終わりました。

お仕事はまあまあ楽しいです。前の職場では、私も知らない間に自分を抑圧して縮こまっていて、何をやっても失敗してばかりだった。けれども、今の職場ではほとんどミスすることなく、なんなら仕事量も多くて大変なはずなのに、他の方のお手伝いをしているくらいだ。お仕事をしている私を褒めてあげたいと思ったのは、きっと初めてだ。

みなさんはいかがお過ごしなのでしょう。

ご連絡頂いている方、お返事できずにごめんなさい。私は心配されていることを受け止める元気と、直接お話しする元気を、今貯蔵中です。たまったらしっかりとお返しします。

 

祝日と土日はお休みの職場です。世に言うゴールデンウィークですが、たくさんのひとがいると、やはり私が削り取られて血塗れになります。ほとんどお家で過ごして、私は私を養います。

 

久しぶりのブログ、かけて嬉しかった。

もう少し気持ち弾むことが書けるようになりたいな。私のために。

 

おやすみなさい。