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母親が暮らしているこの家には、通い猫がいる。

以前は窓から煮干しをすっと投げると、草むらに隠れながら食べるような、用心深い猫だった。今はというと、母親がキャットフードまで買ってきて、玄関にニャーと鳴いてきたら、はいはいごはんだよと、お皿を用意してあげるほどまでに懐いている。

私がその猫と初めて出会ったのは去年の8月。

倒れ運ばれ当分安静にしていなさいとの命が下り、秋田に帰省したのはじんわり蒸し返す夏だった。

まだ家族が4人ひとつ屋根の下にくらしていた頃、確か猫を飼っていたことがある。

なぜかそんなことがあったなと思い出して、その通い猫に声をかけた。

おいでおいでと手招きすると、ニャーと鳴いて、こちらへ迷いなく歩みを進める。初対面という概念がないのかそれともかき消されたのか、あしに擦り寄り、2回目のニャー。

ニャーは魔法だ。どんなに低い声でも、どんなに高い声でも、かわいいなと思えてしまう魔法。

その日から、その猫のことを"おやつ"と呼びはじめた。

"おやつ"は私がいちばんすきな響きで、いい匂いのする、幸せな気持ちになれる言葉だ。

"3時のおやつ"、"深夜のおやつ"、"今日のおやつ"。

なんていい響きなのだろう。

 

春夏秋冬、おやつは玄関の前でニャーと鳴いては家のものを呼んでいる。

ごはんがほしいのか、お水がのみたいのか、それとも誰かにふれてほしいのかは、わからない。

ただニャーという魔法の言葉で、私や母親や同居人の気持ちをくすぐってくる。

寂しいとき、泣いてしまったとき、私は時々おやつのことを呼んでは、膝の上にのせる。

ただ膝の上にのせて、そこにあるあたたかさを感じては、少し呼吸を整える。

おやつは甘えん坊なのか、私のあしに爪を立て、踏むということを繰り返しては、少しここで眠らせろと言わんばかりに丸くなる。

私もおやつも都合のいい関係を作り上げているんだなと、書きながら思った。

 

冬のおやつは少しふくよかになり、雪の降る中、軽やかなステップを踏むように私のもとへ歩み寄ってくる。

これはきっといき過ぎた妄想で、ただ寒いからはやくあたためろと、おやつは駆け寄ってきているのかもしれない。

外にある物置で雨や雪を凌いでは、朝になるとまたニャーと鳴いて、元気に"出社"するおやつ。

彼も彼なりに猫社会で生き抜くため、命懸けのバトル(爪を立てての喧嘩が主)をしてくる。

時々怪我をして帰ってくるおやつに、大丈夫?と声をかけても、クールにニャーと鳴いてしまうのだから、きっと彼にとっては擦り傷程度のものなのだろう。

ごはんを食べて物置で丸まり、ぐっすりと眠る。

私に足りないものをひょいと手に入れられた彼に、私はきっと嫉妬している。

 

冬はつめたいから、あたたかくする術を教えてくれる季節なんだと思う。

上着を羽織ったり、マフラーを巻いたり、長靴を履いたり。

さむいねと言う人に、そうだねと返す言葉だったり。

凍ってしまったこころを、小さなろうそくを灯して見つめながら、とけるのを待ったり。

冬眠、という言葉があるくらいだし、冬はただ黙って過ぎるのを待つのが正解なのだろうか。

そんな問いかけにも、冬はじっとこちらを見つめているような気がする。

冬だから、こんなにも慌ただしくなったり、立ち止まったりすることが多いのか。

雪が降り積もる度に答えがなくなる。

さっきまで書いて、そこにあった方程式は、そこにはもうない。白い雪で隠されてしまう。

春になったら雪と一緒にとけてきえるものを、私は必死で見つけようと足掻いている。