やっと一息つける場所に来て、私の中の暴れん坊はようやく大人しくなった。

気は遣うこともあるけれど、随分と口を動かす機会が増えた。

 

ひとと話すことって、たべものを食べるみたいだ。咀嚼して飲み込むという行為は、まだ不器用なのか、ときどきひっかけて苦しくなることがある。

会話するということって、エネルギーを消費する場合と、エネルギーを分け与えてもらえる場合があるんだなあと、しみじみと感じた。

たわいもないお喋りでも、すり減らして疲れてしまうとき。

言葉数の少ない相手とのお喋りでも、こころになにか点滴をしてもらえたような気持ちになるとき。

栄養のある言葉ばかりで溢れている世界ではないけど、今の私には栄養のある言葉でこころを満たしてあげることが大事なんだろうな。

 

私は卑屈なのか、言葉の裏の裏の裏くらいまで考えてしまうことがある。病気だからではなくて、前から。思考の癖というか、認知の歪みがもともと強いのかもしれない。

ひとと話しているときでさえなんだか怖いなとか、このひとの考えていることはもっと深いところにあるんじゃないのかなとか、疑ってしまう癖。

それってとっても失礼なことかもしれないけれど、相手のことを信じようとする気持ちが弱いのかもしれない。

ひとりでお買い物に行っているときでさえ、レジのひとの顔色を伺ってしまうことまである。私は何か失礼なことをしてないか、小銭を出すのが遅くていらいらされてないか、なんて。

私って随分と用心深く生きていて、もしかしたら縮こまりすぎて生きづらいのかも!と気づけたのはほんの少し前のこと。

これからもうちょっとだけ大人になる時期にさしかかって、"すこし"手を抜きながら生きてもいいのかなとも思う。

 

今日はなんだかずっとあたまが痛かった。

気持ちやこころが壊れてきてからは、頭痛というものが恐ろしくて仕方がない。

たくさんのいやなことが、あたまの中でずっと飽きずにダンスをしているみたい。

それくらい痛みとつらい気持ちに押しつぶされそうになる。

どうしてなんだろう。

私は自分で考えているときに、なにかに邪魔をされるとそっちばかり気になってしまって、何もかも手につかなくなってしまう。集中の糸が突然、はさみで断たれる感覚。その後に襲ってくる猛烈な焦りと怒り。こうなるともう、とりかえしがつかなくて、自分でも汗をかきながらやり過ごすしかなかったこともあった。

最近はあまりないけど、思い返せば中学生のあたりから、そんな節があった気がする。

そうすると、"考える時間"というものが、私の中ではいちばんの幸せな時間なのかもしれない。

考えるだけでなにものこらない、なににのこすこともできないその贅沢な時間は、今の私にはあまりにも少なすぎるものかもしれない。

 

"書く"ということも、実は少し苦手だったりする。

私は恐る恐る指を動かしては、またこれでもない、ああでもないといらいらしながらやっていることが多い。

書き終わるとすっきりした感覚はのこるけれど、紆余曲折あってのものだ。そこにたどり着くまでは、焦りと怒りと少しの悲しみがまじっている。

最近は少し気持ちが落ち着いている。

悲しい気持ちになることはあるけれど、その悲しい気持ちが仲のいい友人のように、私にぴったり寄り添っていてくれる、そんな感じだ。

 

私も少しずつだけど、自分の気持ちと付き合ってあげられるようになってきている。

時間はかかるかもしれないけど、その付き合い方を考えてあげられるようになりたい。