生理痛で1日に2回もお薬をのんだのは初めてだった。床を這いつくばってお手洗いまで行って、戻ってきたらバイオハザードが始まっていた。今日に限っては、私はゾンビ役に適任だった。

 

ほんの少し前から書き始めているこのブログは、居心地がいいのか、なんとか続けられている。

書くこと自体はむつかしいけれど、何もできなかった1日を、"何もできなかった"とただそれだけ書くことで、"何かした1日"に変えられることが救いなのかもしれない。

そう思えない日が幸い少ない私は、なんだかんだ運がいいのかも。

 

"なにか"したから偉いのか。お仕事してることが立派なのか。ねーさんとお話ししてはうーんと少し悩んでしまうけど、お仕事をしていることは、お仕事が少しの間でもできていた私にとっては、本当に本当に立派に思えてしまうんだ。きらきら眩しくて仕方がないんだ。

それだけが立派というわけでないけれど、社会という大きな環の中で、ひとり背筋を伸ばして生きていくことへの憧れと呪縛は大きい。

あの頃に戻りたい、はやく"ふつう"に働けるようになりたいという気持ちは、留まることを知らぬまま加速してしまう。

焦りという大きな負の栄養が、気持ちに悪影響を及ぼすこともわかってはいるけれど、誰よりも自分がいちばんはやくよくなりたいと思っているんだから、仕方ないのかなとすこし諦めモード。

どうしたら焦りと希望の割合を調節できるのだろう。どこにそのネジがあるのだろう。またそんなことを考えては落ち込んでしまう。

考えても答えがわからないし、考え過ぎてもよくないことは百も承知なんですけどね。

 

私にもサンタさんがゆうパックでプレゼントを届けてくれた。

お手紙つきのプレゼント。

なにか匂いがしないかなと思って、お手紙をくんくんしてしまう癖はいつになってもなおらない。きっと、書いたひとの痕跡をどこかで辿ろうとしてしまっている。

ゆっくりと着実に消えていく匂いなんて、私の手元に届く間に確実になくなっているはずなのに。

彼の匂いはどんなだったかな、そこにあるんだ、絶対するんだと、必死にくんくんしては、なんだか切ない気持ちになった。

私にはプレゼントとみじかいお手紙というふたつが届いたけど、彼がこれを手に取るまでの時間や、ペンを握りしめていた事実がうれしい。

プレゼントを選ぶときの顔や、宛先を書いているときの顔。

ペンを手に取り何を書こうか少し考えてる時間や、私に届くまでの時間を彼がどんな気持ちで過ごしていたか。

自意識過剰が過ぎるのもわかっているけど、隅から隅までうれしいものでした。

ありがとう。

 

たまに体や気持ちが思うように動かなくて、私は私に呆れてしまう。

どうしてこんな風になるまで、自分が苦しかったことに気づかないふりをしていたんだろう。

私は私に蓋をして、ただ見えない場所に置いていたことを、今更後悔している。

でも、お友達や通っていた学校の先生、親戚、彼、みんな私に手を伸ばしてくれる。うれしいな。私はその手をとる資格があるかな。わからないけど、ただうれしいな。

時間がかかってもただひとりひとりに、しっかりとありがとうねって言いに行きたいな。

 

そのときまではしっかりと命を握りしめておこう。