今日は1日の半分以上を寝て過ごした。

まだ防衛機能が働いているんだ。よかったな、と自分に感心した。

よく頑張ったね。

 

親戚のお友達の脅威が少しずつ弱まってはきたものの、私は"私"を取り戻せずにいた。

全部が怖いものに見えてしまう。

身内に話しかけられてビクビクすることは初めてのことではないけれど、今日はもう何かがだめだった。

具合が悪いの?とか聞かれるの、なんかもういやだなって思って泣いたのは、初めてだったかもしれない。寝てる時間以外は泣いていた。たぶん、寝ているうちも泣いていた。それくらいの脅威が、私のすぐ傍らにはあったんだ。

グラスを持って乾杯できるくらいに"私"を取り戻せたら、ノンアルコール梅酒ロックを片手に祝賀会をしよう。私のために。

 

"死の受容プロセス"というものを、ふと思い出した。エリザベス・キューブラー=ロスというひとが提唱した死の受容に関するモデル。

私はいまこれを自分に当てはめてみている。

私はこの病気で死ぬことはないけれど、私を殺すことはできる。(たぶんしないし、できないけれど。)

今はまだ、"否認・隔離"の状態にあって、自分は病気だということを根っこから信用できていないし、はたまた健康なのではとも思っている。

私は死生論という授業を受けてから、もうこのモデルを貪るように調べた。研究のテーマもこれに近しいものだった。

記憶の糸を辿って、ハッとした。私はきっとこの中にあって、まだ抗っているんじゃないかって。そう考えて少し安心した。まだその元気が残ってるんだって。

ゆっくりとひとつずつ踏みしめて、わたしは生きていこうと思う。

 

10日以上もおやつに会っていない。

私はきっとおやつに会うと、元気になれる気がしている。なぜだろう。

おやつに会いたいな。