今日は何日かぶりの雪で、つんとした寒さが心地よかった。

私には空から落ちてくる綿雪が、丁寧に千切られたまるい綿菓子のように見えて、すこし見入ってしまった。

 

金曜日に、母が車で3時間くらいのところでやるお祭りに行こうと誘ってくれたから、頷いた。

当日車に乗って、少ししたらもう呼吸が浅くなって苦しくなった。

道中必死に祈った。

ゆっくり息をしよう。

頭の中には何にもいない。

祈れば祈るだけ、呼吸は加速して頭の中の何かが増えてパンクしそうになった。

 

私はいくつかの例を知っていて実証してしまっているから、途中のコンビニで降ろしてとお願いした。

歩いて帰るなんて言ったら、怒られるだろうし機嫌も悪くなるだろうから、おじさんかおばあちゃんが迎えにきてくれると伝えて見送った。

何度かおじさんに電話をして、おばさんに迎えに来てもらうことになった。30分ほどで迎えに来てくれて、申し訳ない思いで縮こまった。

こういうときはお互いさまなんだよ、とおばさんは言ってくれたけれど、こんな機会がお互いにあるのなら、私はくたびれて枯れるだろうなと思った。そのひとの優しさが、時々いじわるをして私にささってくることの原因は、私の認知的な歪みのせいだということもわかっている。けれど、いつになったらことばをまっすぐ受け止められるのだろう。

考えては途方に暮れてしまう。

"ゆっくり"なおしていこうねって、どのくらいの"ゆっくり"?

道路の標識、速度制限の看板さえ見当たらないのだから、いまの私には、アクセルとブレーキの加減もよくわからないまま。加速も減速も、自分のさじ加減では測りきれない。

 

昨日の夜中は、また別な短大からのお友達と約5時間のお喋りをしていた。

彼女とは本当に面白い因縁があって、ひとりで思い出してはにやにやとしていた。

前に付き合っていたひととそのお友達、それとその因縁の彼女と私の4人でよくスカイプをすることがあった。付き合っていることはみんなには話していなくて、そのせいか彼がよく、(その私のお友達である彼女のことを)こんな風に可愛い子が彼女ならな〜などとみんなの前で言うから、私が勝手にやきもちを妬いて。一時期勝手にその彼女にはバチバチとしていた。

あのときはごめんねと、素直を謝ることができた自分のことを思い出しては毎回驚いてしまう。

彼女は笑って許してくれた。

付き合っていることにも気づかないで、いやな思いさせて、こちらこそごめんね、と言ってくれたこと。私はそう言ってくれた彼女のこと、いまでも尊敬している。

なんだかここまで典型的なやきもちで、勝手にバチバチして、ふと気づいたときに謝って仲直りできることなんて、これから先はないだろうと思った。だから、私はあのときに謝ることができたことを、これからもお手本にしていかなくてはと思う。だいすきなお友達が、自分のせいで勝手にいないことになるのは、もういやだから。

 

3日間、おやつは姿を見せないでいて、私がおやつと呼んでも、母がねこと呼んでも、ニャーも足音も聞こえなかった。
今日の夜になっていきなり、ニャーオといつもより長めの声が聞こえて、母と一緒にご飯をあげた。4日ぶりに会うおやつは肥えることも痩せることもなく、毛をふっくらさせたまま、私の足に額を擦り寄せてきた。
尻尾の付け根を叩いてあげると、私の周りをくるりと回って、額をまた足に擦り寄せて、ニャーと鳴く。これはきっと"もっとやってもいいんだぞ"という彼なりの"許可"で、それが降りたらまた叩く。
目を細めて足踏みをして、のどをゴロゴロさせているおやつを見ていると、ああ私も"こういう風に"生きてみたかったのかなあ、と思う。

 

今日は今日で、父の買い物にも付き合った。洗剤と食料を買って、携帯の契約をしてあげて、それで終わりと思ったら、またグッピーを飼いたいと言いだした。

私がまだ家族4人で暮らしていたころ、そのお家には大きな水槽があって、ヌマエビ、グッピーネオンテトラなどの生き物と、のんびりゆらめく水草のきらきらとした世界が居間に佇んでいた。軒先には鉢がたくさんあって、山野草オリヅルラン、小さなスミレが咲いていた。たまに迷い猫や犬まで遊びに来るようなお家だったから、常に賑やかだった。

震災のときに水槽用のヒーターが止まってしまって、水槽の中身は空っぽになってしまったらしい。

私は小さいころそれに囲まれて育ってきたから、なんだかうれしい気持ちになった。

新しくした携帯にはちゃんときれいに映るカメラがついているみたいだから、今度見せてもらおう。

 

ここ1週間は楽しいことのほうが多かった気がする。

いやな気持ちになることもあったし、泣いてしまうこともあったけれど、笑っていた時間のほうが長かったと思う。

ペースは掴めているようで掴めていない。

闘病生活が長くなることが多いと言われる病気だけれど、その中でも1回でも笑って楽しい気持ちになれるのだから、救われている。

救いとかペースとか、忘れられるようになったら、きっと、本当の意味での病気とのお別れになると思う。

それがいつになるかはわからないけれど、今日はのあのわでも聴いて、すこし楽しい夢を期待して眠ることにする。