おやつが3日ぶりに顔を見せたらしい。私がお布団を被って朝というものから避難しているときに、にゃーにゃーと呼びにきたそうだ。夜にも来たようなのだけれど、足跡が私の車の下までついていて、またお散歩に出て行ったようだった。お魚を焼いて大きな骨をよけておいたのだけれど、にゃーの合図がなくて、私と母は気づかなかった。

 

何度か自分で書いたブログを読み直したりすると、"〜けれど"ということばがとてつもない頻度で出現している気がする。これは性格上の問題なのか。

読み返す度に、なんて卑屈でつまらない奴なのだろうと思う。書いたあとは、ふう、と、一息ついて瞼をとじることができるのにな。

推敲とか、もしかしたら私には向いていないのかもしれない。自分の書いた文章なんて、間違いしかない気もするし、それをいちいち直していたら自分のものじゃない気がする。

このような言い訳じゃあ、実力テストにノー勉で挑む中学生と一緒かもしれない。

私はそのようなところまでずっと変わらずに、こどもでいるのか。

 

昨日はお料理をすこししたことを書いた。

私は小さい頃から食べることがすきだ。おかげさまで、お腹は昔からぱんぱんだ。

父が母と一緒にお蕎麦屋さんをやっていたときは、私も小さいながらに、長芋をすりおろしたり、海老の背ワタをとったりしていた。

海老自体は好まないけれど、天ぷらを揚げるときのぱちぱちと弾ける音や、ふわっと花が咲くように衣がひろがるのを見ていることが大好きだった。今となっては揚げ物のにおいにやられるときもあるけれど、あのときはずうっとかいでいられるくらい、幸せなにおいだった。

母と父が離婚してからは週に2回、父に会いに行った。日曜日は近くの野原へピクニックに行ったり、平日の夜は父のお蕎麦屋さんにごはんを食べに行ったり。山菜や根菜のかき揚げ、歯触りのいいわかめが、小さいときからだいすきだった。私が中学生になったくらいのときに、父はお店を畳んでしまったけれど、たまにつくってくれるお蕎麦やうどんが、今でもだいすきだ。

母と弟と私の3人で暮らすようになってからは、母ひとりで私たちふたりの面倒を見なくてはならなくなった。きっと何かしたかったであろう私は、台所に行っては"手伝う!"と母に言っていた。だけれども、お仕事から帰って来て疲れている母は、私には手伝わせてくれなかった。思えばそれから何年間かは、お料理というものに触れることがなかった気がする。

高校生くらいになってから、母は夜にいなくなることが多くなって、自分でたまにお料理をするようになった。お料理の初級編はきっとスパゲッティだ。私はいつもアラビアータをつくったり、牛乳を使わないでつくるカルボナーラをつくったりしていた。

宮城の大学へ通うようになってからは、あまりお料理の得意ではない親戚の代わりに私がつくることも多くなった。

ひとり暮らしを始めた社会人になってからは、余裕のあるときはずっとコンロに向かっていた。揚げ物をつくったり、蒸してみたり、はたまた出汁からつくってうどんを煮たり。それがもしかしたら、逃げ場になっていたのかもしれない。ゆっくりと、その逃げ場にさえも逃げられなくなったときには、でんわにも出られず、会社と自宅を往復する生活を送っていた。もうコンロなんて触ることすらなかったと思う。彼がたまに来るときに、元気があればなにかつくっていたくらい。"私のためだけになにかをしてあげられなくなった私"は、もうだめになっていた。

昨日書いたお料理は、久しぶりにしっかりと自分が自分へつくることのできた、満足いくお料理だった。簡単なものだったけれど、満足したからそれでいい。

今はまだひとつの作業にしか目を向ける余裕がないけれど、そのうちふたつみっつ、同時に進められるようになるのかな。不器用なりにできたらいいな、と思う。

 

長くだらだらお料理について書いていたら、20分も経っていた。時間というものは怖い。

ゆっくりと眠って、起きたらおいしいものが食べられますように。