ここ何日か、気持ちが平坦。なだらかなものに慣れていないから、すこし戸惑っている。浮き沈みの幅が狭くなっていることは、きっと喜ばしいし、このままゆっくりと時間が過ぎて行くのだと思う。

だけれども、なんだか淋しい。

文字を書いたり、文章を考えたり、そういう思考が完全にと言ってもいいほど衰えている。元気でないということは、私にちょっとしたことばの魔法をかけていてくれたのかな、とさえ思う。文字や文章は素直な気持ちで残すことができたから、遠ざかっている今が怖いし、正直落ち込みたいなとも思う。落ち込んでいるのがデフォルトだったからなのかもしれない。

嬉しい変化でさえ、新たなストレスになり得ることを実証できたということにしておこう。

 

今日はぎりぎり午前中に起きて、歯を磨いて、顔を洗って、お化粧をした。フォーマルな場所でも大丈夫なように膝下の丈のスカートを穿いた。ただ上着にMA-1を手にとったのが唯一の間違いだった。

午後から行われる緩和ケアの講座を受けるために、これだけない頭の中身を捏ねたのも久しぶりだった。思った以上にひとがいて、どきどきもした。

講座内容は大学のときの授業とさほど変わりはなかったのだけれども、臨床の場に立っている方からのお話しを聴くのも久しぶりだった。生と死、病気に向き合う姿勢、でき得るケアの在り方を考えるときの、あの生々しく独特な気持ちの渦。ゆっくりと大学のときの頭に戻っていく感覚を、感じとることができた。

ボランティアの養成講座も兼ねているもので、申し込みをした。

でも、最近思うことがある。結局自分のエゴで動くのだろうなあ、と。

誰かの役に立った。何かの気づきがあった。それを求めているからそういう場に立ちたいだけなのかなあ、と。自分の学んできたことを活かす場もほしいし、ボランティアって結局誰のため?と思う。誰かの役に立ちたいと思うことすら、結局自分のエゴでしょうと思う。ひねくれているのかな。

ただこのエゴが、誰かにいいものを与えていたり、何か響くものをのこせたらいいなとは思う。エゴはエゴなんだけどね。お互いにプラスに働けば、エゴでもいいのかな、と書いたらほんのすこしだけ思えた。

 

4月からは臨時の職員で、新たな地で働くことになりました。教育の場に、教育ではない形で携わること、とてもうれしいです。なんでかと言われると、私にその生徒のこころのサポートができる自信がないから。カウンセラーの資格でも、教員の資格でもあれば違ったのかな。

とりあえず、現実問題学校に通うということにはお金がかかりますよね。それを助けるために様々な提案をしたり、道を一緒に探すお仕事です。

私みたいなクソビッチがそんなことできるかよ、と思う方もいるでしょう。

できるかわからないけど、とりあえずやってみます。お仕事である限り、できなきゃいけないし、精一杯努めます。そしてしっかり悩んで、笑顔で解決できるようになります。頑張りますよ、私だって。ただのクソビッチって、それ一面ですから。クソビッチだってひっくり返せば、ただの真面目です。

 

最近はおやつが、30分毎くらいに玄関先で鳴いている。魔法のにゃー。

その都度あたたかいお湯をあげたり、ごはんだったり、おやつのビーフジャーキーをすこしあげたりするけれど、彼が求めているのは、おしゃべりとなでなでとぽんぽん。ちょっと体調が悪くてお外に出られないときは、ごめんねというとすぐに鳴き止むから、おやつは私とのおしゃべりを成立させている。すごい。

あたたかくなってきて、なめらかな毛になったおやつ。撫でる度に、するんとしっぽまで指先が滑る。ほっぺや狭い額をこしょこしょすると目を細めてごろごろする。

なんて素直な生き物なのだろう。要らなくなったら捨てて、欲しいものは求める。彼は"しっかりと生きている"。やっぱりおやつに嫉妬しているんだよね、ってちょっと笑えるようになった。

 

夜中に書いていた文章を、こうやって起きてから見ると、酷いもんだな!と思う。これが私の今の状態なんですね。

病気が治ればいいな、という気持ちと、離れないでいてね、という気持ちが冷戦をしている。

病気さえもアイデンティティで、文字やことばや文章に繋がっていたのなら、私はつらい気持ちをこのまま抱きしめていたい。どこかで自分を素直に認めて、それが出力できる場所があったから。今はたぶんない。友人と会ってお話ししたり、そういうのはべつ。ただ自分の中で自分を見つめて、自分とお話しできる場所が欲しい。わがままだなあ。

 

もうお昼になる。最近は食べたいものを食べているからか、吐き気がすごくて困っている。むかむかしてきて、でも、出しちゃえばすっきりするの、それさえもなんだか好きな感覚になりつつある。だからといって、食べて吐くというサイクルが好きなわけではない。

もう、本当に書いていて苛々する。楽しくない。書いても泣いたり、すっきりするという感覚がないのは不愉快だ。淋しい。