3月20日付で退職をして、もう3週間が経とうとしている。私は軽い気持ちで受けた事務の面接も、気の抜けるほどすんなりと通って、働き始めて1週間が経った。

本当に病気なのかと自分でも疑ってしまうくらい、お仕事にも取り組んでいる。(つもり)

夜のうちに明日着ていくお洋服を上から下まで全部選んで、作業用のバッグと外出用のバッグの準備をする。12時か1時には寝て6時に起きて、夜に選んだお洋服に着替える。おみそ汁をのんで歯磨きをして、洗顔。そしてお化粧。

お仕事が始まる前は、やっぱり吐いたり下したりして、大丈夫なのかなあとずっと不安だったけれども、始まったら案外生活できている自分に驚いている。

 

1週間のうち3日は近場の高校、2日は少し離れた高校での勤務で、運転にも慣れてきた。朝の通勤時間はそんなに長くはないけれど、好きな音楽を聴いてうたえるから、すこし楽しい。

女子高だったから、男子高校生に挨拶されるのはいまだにはずかしくなる。私は事務部の中では若い方だし、服も学校勤めにしてはカジュアルだから目立つ。このひとなら話しかけやすいかなあ、と思ってもらうことも考えてのことだけれど。少しでも生徒と近しい関係で、生徒の学内生活を充実させられるよう頑張ろうと思い続けられるモチベーションを保つことが、今の目標。作業を早くこなすとか、正確に処理するなんて、もう結構二の次。職員の方と協力しあってカバーできたら、それでいいもの。私はこのモチベーションを保って、お仕事を続けるということを最優先にしていく。

 

事務として働いてまだ数日だけれども、ひとつだけなんだか嫌な気持ちになったことがある。

大人になると、ことばが多ければ多いほど、目も通さなくなること。

幼いときはあれだけことばを望んで、欲しがって、求めていたのに。

大人になれば最低限のことばで、それを正確に捉える能力が身につくからなのだろうけれども。

丁寧に伝えようとすればするほど、目も通さない、面倒臭がられる、本当にいいことがない。

そりゃあ、最低限のことばで正確に伝えられたらいいのだけれど、それができないからことばで作り上げられた文章があるのに。なぜ、文章は文章であるだけで怪訝な顔をされるのだろうか。テレパシーがないから培われた文化を、使いこなそうとしていないのは私なのか、他者なのか。

 

文字を考えたり、文章を練ったり、ことばを浮かべることが下手になった。

なぜ書けていたのかも思い出せないほど、あたまが働かない。

それと、ねーさんにはしぶとく生きていてほしい。これはただのわがまま。死んでほしくない。でも、ねーさんが生きるための"何か"を私はねーさんに与えることができない。お金とか手助けとか、具体的な援助ができない。だから、わがままでしかない。

私がねーさんだとしたら、誰かに死なないでと言われて、どんな気持ちになるのだろう。嬉しいのかな、鬱陶しいのかな。それとも何も思わないほどに、気持ちやこころに厚いカーテンをしているのだろうか。

嫌なことがあったら、私たちはそれから上手く隠れたり、逃げたりすることができないから。だからひとに多くを望んだりしない。とてつもないスピードで放たれるボールのようだもの。こちらはいつも素手で、からだで受け止めなければいけない。だから、いま私がねーさんに向かって投げていることばも、ねーさんは痛いかもしれない。ごめんなさい。

 

今日はもうこれ以上は書けない。

また書きたいなとは思うのだけれど、そのときは書けたらいいな。

 

雪はとっくに雨に変わって、陽射しが私の目にはとても痛い。春というものは、ゆっくりと攻め入るウイルスのようで、とても怖い。もしかしたら、突然日和見感染のようになって、私はいきなり衰弱死するのではないのかと思う。

あんなに好きだったものが、こんなにも怖い思いをするようになるなんて。

気づかないうちにでも、ひとつ、好きなものが増えたらいいな。

 

おやすみなさい。