書かずにいた間、ここでは桜が咲いて、今に散ろうとしている。眩しい緑の葉もちらほらと見えてきた。桜の花は春を感じさせるけれど、寂しいような気持ちにもさせる。どうして散るということは、こんなにもひとを悲しくさせるのか。

 

お仕事が始まってからはいちにちいちにちが目まぐるしく過ぎていって、すっかり夜になっていることが多い。

毎日母から家にお金を入れなさいと言われても、体調がガクンと下降線を辿ることが少なくなってきた。ただずっと焦る気持ちは残っていて、私の本当の気持ちはすみっこで膝を抱えたまま。

 

2校の歓迎会が終わって、たまたま父と会う機会があった。そのときは父の友人も一緒で、「なんだか(父の様子が)おかしいから、病院に連れて行ったほうがいい」と何度も言われていた。

よく見ていなくてもわかるほど、足の動きが固かったり、喋り方はどこか舌が置いてけぼりのようだった。脳梗塞なのかもと思って、次の日は絶対病院に連れて行くよと何度も電話して、お仕事もお休みすると上司に連絡をした。

父は案の定、次の日の朝から電話が繋がらなくなっていた。私はどうしていいのかもわからずに、母のいる家でじっと泣いていた。母からどうしたどうしたと声を掛けられても、どのように答えたらいいかもわからずに、しばらくぼうっとして、正直に父の状態を話した。

母はため息をつきながら、父の友人に電話をしたようだった。私が福島でのお仕事を辞めて、せっかく地元に戻り新しい職場で落ち着き始めたのに、こういうことで私の気持ちを乱さないでほしい、というのが母の気持ちらしい。母はそれを私にも話してくれた。

けれども、ぽっくり勝手に死なれたらもっと嫌な気持ちになるし、心配になるときはしっかりと心配させてほしい。いくら離婚してお互いが別々に生活していたとしても、私にとっては何が何でも父と母だから。嫌いでも好きでも、心配になるときは嫌でもなると、私も今回ばかりはそれを素直に話すことができた。母からは、とりあえず病院にでも連れて行って、自分を落ち着かせなさいと言われた。

父の家やハローワーク(就職活動中のため、たまに通っているらしい)、よく行くスーパー、地元の大きな病院に車を走らせた。家には不在。ハローワークやスーパーには顔見知りもいたから、電話番号を伝えて、来たら電話をもらえるようお願いした。病院からは個人情報保護の問題で難しいと何回か言われたけれど、詳しい症状や通院歴があることを伝えて、なんとか連絡をもらえるようにお願いした。ここ10年ほど大きな病院には通っていなかったようで、痛風持ちの父はどこの病院に行っているのだろうと、また心配になった。

探し回って3時間、自宅付近の道端で自転車を押している父を見つけた。足が既にもつれていて、1歩前に進むのも大変そうだった。自転車もあるからと、頑なに車に乗ることを拒否したから、父の自宅の前で車に乗って待っていた。

どうしても検査してほしい、入院をお願いしているわけじゃない、就職するなら健康じゃなきゃ受け入れてもらえないと、何度も諭した。それでも父は70も近いから、ガンと動かず病院には行かないの一点張りだった。ただ私が救急車をこの場で呼ぶか、私が刃物か何かで刺して警察を呼ぶか、素直に私の車に乗るかの3択しかないと本気で脅したら、しぶしぶ私の車に乗った。

探し回っていた中のひとつの病院に現状を説明して、父には伏せて急患扱いで診てもらった。車の中でそれとなく聞いていた今の体の具合を、看護師の方に細かに伝えると、すぐに検査してくれることになった。血液、肺機能、心電図、レントゲンを一通りやっていく中で、父はもうぐったりとしていた。待合室で座っていたのは正味1時間ほどで、その間に何度も帰ろう帰ろうと懇願された。私はこんなに頑固になったことはないくらい、もう少し待とう、これでよかったらごはんを食べに行こうねと、辛抱強く背中をさすった。

結果が出たのは午後2時を回った頃だった。話し方や歩き方からみて、脳機能に大きな異常がないということなのか、追加の検査はなされなかった。今回わかったことは、肝臓の機能が著しく低下していること。長年煙草は1日4箱なんて生活をしていた割に、肺にはなんの影もなかった。ただ、焼酎を1日1リットルペースで飲んでいたことがかなりまずかったらしい。ビールが大好きだった父は、痛風を患ってから焼酎にシフトチェンジした。それがかなりのストレスで、摂取量もかなり増えたようだった。肝硬変の一歩手前までいっていたようで、強い倦怠感、下痢などはそこからきている、との説明を受けた。最後には、アルコールとここでお別れしなければ命を手放すことになる、肝臓の疾患で亡くなるとすればかなり苦しい目にあってから亡くなる、ということを厳しく言われた。父は案外すんなりと、そんなに肝臓が悪いのですかと、事実を受け止めていたようだった。ただ、胃潰瘍イレウスで入院歴があるのを考慮して、胃カメラをしておいたほうがいいのではという提示があった。父はもう食い気味にいらないですと答えたけれど、私は飲め!飲め!と大声で怒鳴りつけた。お医者さんは笑いながら、いらないというひとには無理やりできないですから、と言っていた。

お会計を待つ間、肺機能は問題ないと言われたものだから、煙草はいいのだろうとそそくさと駐車場まで行った。私はなぜかホッとしてしまって、待合室でひとり静かに泣いていた。

今すぐに死んでしまう気がしていた。父が亡くなったときの顔が、なぜか目の前に浮かんでいた。目を閉じているだけの、なんの感情もそこにはないような父の顔。そのようなことは初めてだった。一晩中泣いて、頭が痛くて、ほとんど寝ていなかった。だから、父が亡くなるわけじゃないと少し安心したのだと思う。

帰りの車中は、お酒を飲んで死にたいならそれでいいけれど、死ぬまでの間は死ぬより辛い思いをするからねと念を押した。父もふざけて、酎ハイでも煽って死のうか、それともビールがいいのか、なんて話すくらいには明るくなっていた。本当にふざけた奴だ。病院に行く前は呂律も回っていない、すぐに息切れをして何かにつかまって座らないといけないくらいだったのに。このひとが亡くなったらきっと悲しいのだろうなあと、しみじみと思った。

 

そのようなことで私の4月は終わりました。

お仕事はまあまあ楽しいです。前の職場では、私も知らない間に自分を抑圧して縮こまっていて、何をやっても失敗してばかりだった。けれども、今の職場ではほとんどミスすることなく、なんなら仕事量も多くて大変なはずなのに、他の方のお手伝いをしているくらいだ。お仕事をしている私を褒めてあげたいと思ったのは、きっと初めてだ。

みなさんはいかがお過ごしなのでしょう。

ご連絡頂いている方、お返事できずにごめんなさい。私は心配されていることを受け止める元気と、直接お話しする元気を、今貯蔵中です。たまったらしっかりとお返しします。

 

祝日と土日はお休みの職場です。世に言うゴールデンウィークですが、たくさんのひとがいると、やはり私が削り取られて血塗れになります。ほとんどお家で過ごして、私は私を養います。

 

久しぶりのブログ、かけて嬉しかった。

もう少し気持ち弾むことが書けるようになりたいな。私のために。

 

おやすみなさい。