今日は、数日続いた残業から抜け出せた日だったので、退勤してかららーめんを食べに行きました。

小学生の頃から通っていた、営業時間は18時までという古風で小さな食堂です。当時お店を切り盛りしていたおばあちゃんはデイサービスに通っていて、今は娘さんとお孫さんでひっそりと営業しています。ひっそり、と書きながらも、お昼は注文してから30分も待たされたりする人気のお店です。

そこの娘さんはちょうど私の母親と同じ世代くらいで、私のことを小さな頃から知っています。私の母親や、祖母、叔父、私の家庭環境も少し知っています。

今日は閉店間際に駆け込んで、お客は私ひとりでした。10分ほどで出てきたらーめんは、きっと、確かに、いつも通り美味しかったのです。

そこのお店の娘さんに、私の母親は元気か、と尋ねられました。いつも通りだと答えました。相談もしていないのに、私の生活についてアドバイスをされました。外に目を向けてみてはどうかとか、家から出るとか、母親と離れるとか。求めていないものをこんなにも投げ渡されることが、こんなにも受け止めきれずに辛いものかと、久しぶりに思いました。

過去は変えられないのだから、これから先を見据えなければならないことも、私自身わかっています。わかっているけれど、過去に引っかかっているのが私なんです。お薬をもらって、そこに引っかからないようにしているんです。いつもなら楽しめることを、今は楽しめないので、楽しめるようにするお薬をもらっています。

大好きならーめんなのに、なんで嫌なお話をしなくちゃならないのだろうと、思いました。

善意が鋭い棘のようでした。

その方はきっと、私のことを救おうとか、もっといいことがあるよとか、優しさで包もうとしてくれたのだろうと思います。だけど、私には涙が出るほど辛いものでした。

 

自宅に帰ってからは陰鬱でした。重ねて書き並べたいほどです。例えるなら頭痛の続く梅雨、大きな音を立てる台風、曲がったストロー、ちくちくとしたセーター、伝線したストッキング、セロリの後味、母親の声、男性の声、毎日飲まなければならないゴミ屑のような粒。

私の嫌いなものだらけ。ひどく嫌な気分でした。当分行きたくないお店です。私が所謂"元気"な状態でなくては、ボディブロウをしかけられるからです。

 

お薬を飲まなければやっていられない、というわけではないと思います。半分気休めなのではないかと、自分でも思います。

病状が寛解に向かっていることを他人にも報告したり、提示したりしないままだと、私はいつまでも弱者なのでしょうか。

 

なんだかなあ。

誰のために"良くなる"のでしょうか。

私のためなのか、他人のためなのか。

私を心配してくれている他人を満足させるための治療なら、もういっそのこと死んでしまいたいです。何言ってるんだよと笑われてもいいです。