ガストのバニラ オ・レのカップに口をつけている。お仕事に行かずに外食をする、なんとも言えない背徳感がまた、このバニラ オ・レを美味しくさせている気がする。

上記のセンテンスを書く間に2杯。この甘さは何で出来ているのか不思議。私を落ち着かせてくれる。ふわふわと甘くて、大好き。

時間帯のせいもあって、とても空いている。斜め向かいにミセスが何人か座って、会話に花を咲かせているところ。私も誰かと来たら、そんな風になれるのかな。

 

今日の朝は目覚めが悪かった。早起きして白湯を飲み、軽くストレッチをするという目標を前日に立てた。しかし、白湯を死んだ目で飲み込む、という結果にしか終わらなかった。

からだを動かすことが"億劫"という文字の表す不自由さの100倍ほど億劫だった。

でも、あー電話でご連絡することはできそう、と思えて、今日の状態をお伝えした。

午後、これからどこの部署に配置換えをするかとか、お休みのこととか、相談しにこっそりと職場へ行った。誰とも顔を合わせることがありませんように、と願った。お化粧もせず、顔をほとんどマスクで隠して、ガバガバになったジーンズを履いているところなんて見られたくなかった。

私のこと、ある程度は把握してくれているようで、助かった。今日キャッチするべきボールは、ささくれにもひっかからなかった。とても、嬉しかった。

 

木曜日のことも、冷静に考えられるようになった。

夜に待ち合わせをして、軽くごはんを頂いて、お酒を買ってお家であけた。彼は1缶ビールをあけて、私のサングリアを味見した。私はというと、500ミリくらいの1瓶をあけることもできずにカップに入った氷を眺めていた。

アルコールが私の思考に靄をかけて、頬をじっとりと汗で湿らせた。

その時点で23時を回っていたから、彼は半分以上睡魔に侵されていたと思う。お風呂を頂いて、私がおそるおそるベッドに入ったのは1時を過ぎた頃だった。緊張で指先が冷たくて、冷たいの、と伝えたら、あたためてくれた。起きても平日だから、寝てしまった(ことになっている)。私は彼の寝息に耳をそばだてて、繋いでくれた手がどのタイミングで離されるのか考えていた。こっそりとお薬をのむのを忘れていて、眠れなかった。夜にのむお薬ぜんぶのめなかった。

アラームが鳴ったとき、またベッドの優しさに埋もれて、あと30分と、幾度も引き込まれた。能動的に。

 

帰る頃には頭が重かった。

なぜ帰らなくちゃいけないのだろうとか、からだがしんどいとか、ただの寂しさだけだったのなら良かったけど、病気の症状があらわれてしまった。自己責任だ。お薬をのんでいないのだから。罪悪感からここには記すけど、金曜日はお休みをした。

 

昨日は案の定眠れなくて、それを言わずに彼に電話をした。学生の中でもだいぶ大変な学部だから、忙しさの想像がつかない。でも、優しい声がとても耳に残って、また眠れなくなった。

 

お昼兼晩ごはんを食べ終わった午後4時。

この時間に席を案内してくれる、パーマをかけた男性がとても好き。この男性が席を案内してくれたのは2回目だ。

時々目が合うけど、そのときに自然に微笑むことができるのは、才能なんじゃないかと思う。お仕事だから、そんなアイコンタクトも普通にするのだろうけど。

 

バニラ オ・レは7杯目。気持ちがじんわりほぐれてきた。

少し本を読んだら、シャワーをあびて、すぐに眠りたい。

なんとなく落ち着かずに、また胃に食べ物を詰め込んでいる。土曜日と日曜日は、なんとなくしんどかった。なんとなく、ぼんやりと、じわじわとしんどい。焦燥感のようなひりひりとした火傷が、気持ちを焦がしている。

 

はじめてのデートは、とても悲惨なものだった気がする。こんなに緊張したデートなんて、短大生のとき以来だったと思う。

目を見てお話しすることがあまり出来なくて、顔を合わせてくれないんですね、とまで言われてしまった。本当はもっとしっかりと目を合わせたかったけど、中学生並みの照れが勝ってしまった。

帰ってから後悔していることも、また今度会いたいことも、頑張って伝えようとした。けど、空回りしてすごくすごくしつこくなってしまった。すこし時間をあけて冷静になってから謝ったけど、病的な人間だって思われたかもしれない。でも、2回目のデートが実現したのはこれのおかげだったのかも。

待ち合わせのときはやっぱり驚いてしまって、ああまたびっくりした顔を見られてしまったと、前髪を触りながらごまかした。

予約時間をすこし過ぎて、イタリアンのお店に連れて行ってもらった。大好きなクアトロ・フォルマッジがおいてあるお店。すん、と綺麗なお店だった。シンプルな造りの外観、タブリエでキリッとオーダーを待つ従業員の方が私たちを緊張させた。でも、一緒に食べたピザやジェラートが頬を緩める役割を果たしてくれた。たくさんお話しをした。気づかれないように見つめながら。

映画館に向かうとき、私たち場違いだったかな、とふたりで笑えて嬉しかった。緊張してしまったねと笑えた。

映画はReady player 1を観た。ほんのすこしのラブシーンが、その後の私をおかしくさせた。作中すこしドキリとする場面や涙腺が緩んでしまう場面があって、私はその度素直に反応した。映画が終わったとき、うるさくして(声は出していないけどびっくりしたりしたこと)ごめんなさいと言ったら、大丈夫ですと微笑んでくれた。手が触れそうになって、目をつぶって立ち上がった。本当に中学生の頃に戻ったようだった。

ウインドウショッピングを楽しんで、ゲームをしたりした。お別れするときも私の頑なな緊張はとけずに、せっかく彼がつくってくれた柔らかな空気もぶち壊してしまって、またねと手を振った。2回目のデートは1本の指も触れずに終わった。

帰ってからはまた後悔の連続で、でも今回は充実感が優ってベッドでふやけて眠りについた。

 

何日か経って今日、月曜日。GWが明けて、私の気持ちがなんとなくざわざわしている今日、お仕事をお休みしようと思っている。

日曜日から母たちが家を空けている。私はいまひとり。ひとりになると途端に7年くらい前のことを思い出す。家中の窓の鍵をかけて、カーテンを閉めて、ベッドにもぐる。何かの音がしたはずみで頭がグラグラする。もう時効なんじゃないのか、と思ってたけど、私のからだはまだいろいろ覚えているようだった。

病気とこのことについては、お話しするべきか、やめておくべきか悩んでいる。本当は聞きたい。ねえ、こんなことになっちゃってる私なんだけど、すき?って。間を空けずにすきですってただ言われて安心したいだけ。そんな軽いことでもないだろうから聞きはしないけど。

 

日曜日、きっとひとりでいるときしんどくなるだろうなあと思って、電話がしたいですと言えたのは成長。私は私のしたいことが彼に伝えられるようになってきた。それができなくても当たり前だと思えないことは、これからまた良くなれるところだと思いたい。いま、現在進行形でしんどいけど。

うそをつかないで、ぜんぶ裸になるくらいの勢いで、私を見せてもいいやって思えるくらいの勇気がほしい。私には足りていない。

 

気を紛らわすことをいい加減に覚えたい。他のことをしても、頭が置いてけぼりになっている。からだがサーッと冷たくなる。

 

デート、と書いたことは初めて。彼とのおでかけ、彼とのデ(ート)と言っていたから。

すこしでも私をうきうきさせたかったし、落ち着かせたかったから書いた。

こうやって文字で残せたら、大丈夫。大丈夫の定義はよくわかっていない。

 

見ることなんてないと思うけど、見てたら教えてください。

私のこと、すきですか?

月曜日から、やんわりと雨が続いている。空気が少しの冷たさをはらんで、ふんわりと包みこむ感覚が好き。

思考は止まって、気分はすぐれない。落ち込むとかなりの時間、その場で立ち往生している。なんとなく、やり場のない気持ちをその場所で留まらせることができない。疼く、とはこういうことなのか。その疼きが堪らなく辛い。

 

日曜日は終始緊張していたし、どう思われているのかずうっと考えていて、正直ストレスフルだったと思う。楽しいなという気持ちもそこにあったのに、とても悔しい。余裕がない。

今日、気持ちをゆっくりと押し込んで、私を守らなくちゃいけないと思った。この数日、私は乱されて絡まって、疲弊した。もっとドライで何も考えなくなれればいいのに、と上の方から私が呟いた。

 

ゆっくりと自分を殺して生きていきたいと思った。今までも殺して生きてきた部分もあるけど、もう少し、私を削らなければ、削られてしまうと思った。

誰かに削がれて痛いって思うより、自分から剥いで削いで痛くなったほうがいい気がする。精神的自傷、と呼んでいる。

大人はみんなこんなふうに生きているのかな、大人にはなりたくない、と思う。大人にならなければいけないとも思う。大変だな、大人って。

暖かさを含んだ風に水仙が揺れて、沈丁花の香りがとどくようになった春。

春も盛りなのかなと考えていたら、桜の蕾がすこし膨らんでいた。まだ春のピークは終わっていなかった。

 

今日は2時間くらいお外をふらふら歩いてみた。土手でうたを口ずさんで、児童館のブランコを漕いで、小さなスーパーでおつかいを済ませた。

地元に住んでいるけど、知らないお店や新しい建物がにょきっと生えていて、その小さな気づきが、ちょっとした勇気になった。なんの勇気なのかは目下思考中。

とても有意義だった。私とは違うひとたちが、違うことをしているのを眺めることが。この時間帯は親子で自転車に乗っているのかとか、おばあちゃんが大きな段ボール箱を抱えてお買い物をしているのかとか。こうやってお外に出なきゃ、私はきっとお家にいることが悪いことだってずうっと考えていただろうから。

 

きれいだな、すてきだな、と思ったものにカメラを向けることは少なくなった。

じっくりと自分の目でみつめて、ゆっくりと匂いをかいで、そうっと触ることのほうに価値があるんじゃないかなと思ったから。頭が抱えきれない情報を集めることをやめて、だいぶ楽になった。

 

クリアな思考が続けばいいなと思う。

ずうっと透明になりたいなと思った。

屋根から落ちる露がやさしく地面に着地している。

もうあたたかな春がそこまで来ているのに、私はまだ動かなくて、涙が止まらなくて、冬に閉じ込められたいとすら思う。

 

すき、という気持ちは、私の中に存在するのかどうか、考えるようになった。

今までしっかりとすきなひともいたし、すきな食べものだってあったけど、改めて考えてみた。私の中のすきのコレクションからは全部消えている。

なんで?どうして?すきだったのに、なんでなくなってしまったの?とすら思わない。執着心がないからなのかなとも思ったけど、私はすきなものを自ら手放すことによって、自分が傷つくのを回避していただけ。

すきなものをきらいなものになる瞬間、そのほんの一歩手前で私はお別れをすることにした。

私が自分の意思で、すきでなくなったものと思えるように。

 

今の私はゼリーのようにキラキラしているけど、触れたらすぐにぐちゃぐちゃになってしまうような好きなものにしか囲まれていない。

なんだろうね、この気持ちは。

本当にすきなものに巡り会えたときに後悔するのは目に見えていることもわかっていたのに。

 

たくさんの嘘と見栄といっしょくたになった虚栄が、ゼリーの中身になって私を見ている。

 

きらいと言われる前にもきらいだよって言いたい。

怖いから。

突然のさようならも今は耐えられない。

 

自立歩行の前にゼリーを壊して、綺麗な標本箱を見繕えるようになりたい。

すきなものができますように。

雪が降らずに雨が続いている。

雨の降る音は好きだけど、雪の降る冷たさの方が好き。静かに、息がつまるような冷たさ。

冷たさの中に身を置くことにも慣れるというか、寒いなあと思いながら、擦り寄るおやつが殊更可愛く見える。寒さで3割増しの可愛さ。

 

最近、CYNというアーティストのTogetherという曲を聴くことが多い。すこーし昔の流行った感じの曲調の中に、可愛いことばが散りばめられていて、リリックビデオがなんともあたたかい気持ちになる恋人の距離感。

体調が良いとこれを聴きながら運転したいなと思う。

 

ここ何日間かは眠れなかったり、眠れたと思ったら僅かな揺れと音に意識が自分の中に引きずり出されてしまう。中に引きずり出す、という表現はおかしいと感じるとは思うけど、睡眠の概念が崩れてからは、こう表現すれば自分が納得するようになった。

わざわざ自分の外に自分を置いて休ませているのに、なにかの拍子にその置いていた自分をまた自分に取り込まなくてはならない。

きっと運転をすると危ないなあと思っているから、控えている。お金もないし。

 

精神的にもなぜかやられている。

眠れないまま、朝のうちに居間に行くと驚かれる。暫しの無言。飲み物をコップに注いで、自室に戻るまでの息苦しさ。

眠られればいいのに、意識がぴったりと私から離れてくれなくて、眠れることを祈りながらずっと横になっている。

眠れたと思ったら、他人のいる前で食べるという行為をしたくなくて、誰もいないときを見計らって何か口にする。口にするとは言っても、通常健康な女性の1食分くらいのカロリー。横になっているだけの私には、食べ過ぎなくらいだ。

食べなさいと言われるのも疲れるし、食べないと答えるともう食べるなと言われるのも面倒だし、また逆に心配されてこれ買ってきたからと言われるのも疲れた。

あるのはお茶だけでいいのに。

栄養もまともにとらずにすんなりと死ねたら、きっとみんな楽だしさ。

 

ここ何日かひどく浮き沈みがあって自分に疲れていたけれど、今日はなんとかやっていけた。日にちは跨いでしまったけれど。

 

お腹と腰が苦しい。重いという表現を使おうと思ったけど、お腹には使えても腰には使えないかなと思ってやめた。私の基準だと腰は落ちるところがないから。もし落ちたら、脚が短くなるだけ。考えたくもない恐ろしいこと。だから、重いということばは使わない。

 

眠さがきた。

しっかり眠れたらはなまるにしようね。

おやすみなさい。

眠れたのに結局起きてしまって、終いには首が痛くてまだ眠れていない。頭痛にはだいぶ慣れてきて、「あ、これは痛くなるやつだ」とわかるようになってきた。

首が痛くなるのは初めて。コリのような感じ。ずっと重くて、違和感。重いといえば下に落ちるイメージだけど、首が重いのはニュアンスでしか伝わらない。肩が重いのは下に落ちる余力があるからで、首はそんな余力、どこにもないと思った。

 

以前、50代の女性から、「やっぱり、ニュースは新聞紙で読まなくちゃいけないのよ」と言われた。なにがやっぱりなのか、なぜ新聞紙なのか、なぜそうすべきなのか、私にはさっぱりわからなかった。

インターネットで様々な情報を得られるし、新聞の記事だってウェブ上で同じものが見られることもある。"新聞紙"という媒体に拘る理由が考えてもよくわからなかった。

インターネットが危険性を孕んでいることは勿論考えなくてもわかる。ひとつのニュースだって、膨大な情報量になり世界に発信されている。ユーザーがいればいるほど、精細な情報が隠れてしまうことも多い。ニュースにコメントを残したものを、そのまま鵜呑みにしてしまうユーザーもいるだろう。

"新聞紙"にはその可能性はないのか。書き手がいるのだから、正確な情報がそこにはあっても、ひとつまみの感情が存在するのではないか。書き手は人間なのだから、仕方のないことだろうけど。

新聞紙の記事もウェブ上のニュースも、自らどれが必要な材料なのか見極めること、それにどう思うのかを考えることが、"やっぱり"しなくちゃいけないことだと思う。

 

学生時代は"新聞"を読みなさい!と散々言われてきた。受験シーズンとなると殊更に強調された。それは自分をふるいにかける人間が"新聞"を読んでいる人間だからなのか。見出しや社説、政治欄は絶対質問されるぞ、という先生のありがたい忠告はいつまで存在するのだろう。

世代が変わって新聞という読み物が珍しいものになったら、ふるいの掛け方も変わってくるのだろうか。

あなたはどのニュースアプリでなんのトピックをよくご覧になりますか?ちなみにどんな言語でお読みになりますか?なんて質問が出てきたら、世の中変わったんだなあ、としっかり思うことができそうだ。

 

鎮痛剤と寝る前(8時間前)にのんだ睡眠導入剤のおかげで、てもとがおぼつかない。さっきはお手洗いで便器に顔を突っ込みそうになった。

眠れないのに体は眠ったふうになるなんて、とても不愉快なことだと思う。