考えなくてもいいことばかり、頭の中で浮かんでは消える。泡のようなものなのだけれど、生まれてからずうっとぱちぱちはじけて、またぷかぷかと浮いてくる。

なんでか、どうしてか、楽しいときでも悲しいはずのお話をして笑っている。楽しいと思い込ませることが嫌でも得意になることは、思えば悲しいことだ。

 

 私が大袈裟に騒いでいるだけなのかもしれないけれど、お家のことは頭の中の8割以上を占めている問題。家族とか親戚とか、そういう"血の繋がり"というものを、ここまで嫌になったこともなかった。というか、きっとみんな親切なんだ。けれど、いまの私の受け取り方がよくない。

家族には家族固有のルールとか暗黙の了解があって、いまお世話になっている親戚のお家にも、それはある。私はいまそういうものに気づかないでいるのか、それとも気づかないように気をつけているのか、とりあえず癪に触ることをしてしまったのだろう。膿を出すように、私はこのお家からもまた出される。私も私で素直になれないうえに、受け取り方が歪んでいるからこうなるのだろうけど。

とりあえず私のせいということにしておけばいちばん楽、と考えるようになったのはいつからだろう。

遮断しながら生きていくことは確かに楽で、寂しく、ぬるま湯に浸かっているようだ。

これ以上ぶつかって、すり減って、血を流して、息ができなくなることは避けたい。

たとえハグして解決するハッピーエンドが用意されているとしても、その過程に付き合える体力と精神力は、いまはもうない。

 

社会に出ることが、私の抱えている問題を解決するための唯一の策だ。金銭面でもゆとりができることは、気持ちにもゆとりをもたらせる。

現実的に考えてみれば、社会に出てお金を頂くことはいまの私には難しいこと。お仕事を辞めてアパートを引き払うことだって、少なからずお金の掛かることだし。

どの脛をかじることになっても、涙を流すことが予想できる。脛なんてかじりたくない。頼りにもしたくない。私は私で立って、どこにでも走っていったり、しゃがんだりしてみたい。息苦しくなったとしても、自分で慰めてあげることができるようになりたい。

急かしているのではない。ただ自分に包丁を突き立てて、汗を流している私を、ただみていることに嫌気がさしている。

 

言葉と文字は私を励ましてくれているのだろうか、ゆっくりと頷いてくれている気がする。

肯定でも否定でもなく、ただ頷いて飲み込みもせず、一緒に眺めていてくれている感覚。

言葉と文字は遠く離れたところから見ることがすきだったけれど、近くで見ることがきらいだった。嘘とか嫌なもので取り繕ったものがあまりにも多くて。そんなものが寄り添ってくれる存在になってくれるなんて。

 

明日は問題に向き合う日。

いやでもどうしようにもできない。

ただもう全部が遅くて、蘇生させることは難しい。

でも、"無駄"と知っていて立ち向かうことでなにか変わるかもしれない。

ほんのひとつまみの希望だけを信じて、明日は生きていようね、生き抜こうねと自分と約束する。