先週はお休みせずにお仕事へ行きました。

水曜日の後ろ2時間は有給をとって、病院の診察にも行きました。あと年金事務所にも。

 

診察のときにはやっぱり、携帯のメモが役立ちます。からだ、きもち、生活していて不便なところとみっつに分けて、不調を書き出します。これも私には難儀です。お仕事をするようになってスケジュール管理をするようになりました。それのために使うスケジュール帳その日の体調を書きます。例えば腹痛とか、不安とか、一瞬でも痛かったり感じたりすると書きます。忘れないうちに書いて、病院の前日には携帯のメモにまとめます。2段階で漸く完結する作業です。私にはまだまだ、効率的にものをこなすことがむつかしいようです。

 

最近は母親と話すようになりました。

度々、私があまりにも生意気なくちをきくものだから、カチンときていることもあるようです。

もうこどもじゃないのだから、ひとりで生活するべき、していることが当たり前、というのが母親の考えのようです。

私もそれは一理あると思います。申し訳ないと思いながら生活をしています。ただ、なぜ申し訳ないと思いながら生活をしなくてはならないのか、わかりません。

母親の子である以上、私なら、こどもが何歳になっても具合が悪いなら面倒を見ます。でもこれは私の中の常識です。そう思うから、私は最近になってこどもを授かってみたいという気持ちがなくなりました。今の私のようなこどもがうまれたら、私は面倒を見きれないからです。辛い思いをさせたくありません。現に私が辛いからです。

母親は、私がここにいることがそんなに嫌ならひとりで生活していけばいい、と言いました。私は、できたらもうとっくにしている、と言いました。できないのは誰のせいだと言いたげな母親を私は見逃しませんでした。そうですね、私のせいです。

私がもう少し強かったら、こんな風にもならずに他人にも自慢できるような娘になっていたかもしれません。育て方を非難することはもうやめました。育ち方が悪かったと思うことにしました。

あなたのようにもう少し面の皮が厚かったら、私は親戚にまで後ろ指を指されても、ご近所からひそひそ話しされても、どうってことなかったのでしょうね。

 

ここのところ、私は小さな頃から母親というものをあまり知らないで生きてきたのだと思いました。

小さな頃はもちろん可愛がられていたでしょう。弟が生まれて、きっとやきもちもやきました。でもそれくらいからですかね、母親がひとりの女のひととして生きているんだと思ったのは。

離婚してからは夜が怖かったです。知らない男のひとが、小さなアパートに出入りしていたこと。母親が度々いなくなっていたこと。お引越ししてからもそうでしたね。

でも、お料理を作って、学校にも通わせた、それだけを母親の務めと思っている私の母親に、そこが違うよと言っても伝わりませんでした。私はいつから、母親と距離を縮めることをやめたのか、覚えていません。

 

父親とは離れていたぶん、嫌な思いをすることがなかったので、今は仲良く、度々お出かけをしています。きっとそれも気に食わないのだろうな。

 

お家を出る準備をしなければいけません。今日を生き延びたら、明日が待っています。目が覚めたらもう明日なのです。

それに感謝しなくてはならないと、誰が決めたのだろう。

どんよりと沈んで、泥のように浮かぶことのない気持ちを抱えたまま生きなければならないひとは、なにに感謝すればいいのでしょうか。

希死念慮に押し潰されず生きることは、そんなにえらいことなのでしょうか。

傍観していた私は、生きていてほしいと思うことはあっても、生きていたいと思うことが少なくなりました。

きもちが動かなくなってしまったらどうなるのだろうという恐怖を抱えたまま、眠って起きたら当たり前のように明日が顔を出しています。ゆっくりとおひさまに殺されていきます。

自分を大切にしなさいというひとほど、無責任なひとはいません。私は無責任だった。

大切にできないなら、かわりにそっと、まもってあげられるひとになりたかった。

 

きっと私も母親にまもってもらいたかった。