昨日は頭が痛くて、ずっと痛くて、痛いという感覚はこんなにも体を不便にさせるのかと思い知らされた。

今日は今日で、お腹が痛い。寝た時間は遅かったけれど朝早くにおやつのニャーで目が覚めて、それからずっとお腹が痛い。

体は素直だな。私がきっとこのブログで、しんどいよと書くだけでは物足りないんだ。頭を痛くしたり、お腹を痛くしたりしなくてはいけないほど、きっと疲れている。

横になることも疲れる。なんで私はお外でお散歩をしたくてもできないでいるんだろうとか、ドライブして海まで行きたいのにできないでいるんだろうとか、考える。できないことはないんだ。ただ、元気があまりにもないときにしてしまうものに見合う対価を支払う自信がない。帰ってきてからの反動も予想がつくから。ない元気をすり減らしてまで出歩くことが、きっとつらい。と、考えてしまう横になっている時間もつらい。

 

以前、考えることは贅沢だと言った。

その思考は変わらない。変わっていない。

考えさせられることが不自由で、無駄に感じとってしまうこの感覚が不必要なんだ。

 

つらいということばを書いたり言ったりすると、きっともっとつらい。

読んでいるひともつらい。

つらいというか、楽しくない。

でも私は、つらいとしっかりわかっていることを体に伝えなくてはいけない。

わかっているから、もうどこも痛くしないでほしい。

どこもかしこも、もう痛いからやめてほしい。

何かあったわけでもないのに、突然つらい気持ちになることもわかっているから、もう暴れないでほしい。

私も私を抑えきれなくて、どうしようもできなくて、ただずっと泣いているだけで、体の水分がぜんぶ涙で出ていってしまう。

泣きすぎてまた頭が痛いから、体が冷えるくらいの水分を摂った。本当に私の体はポンコツになってしまっているから、すぐに出てくる。無理して摂った意味がないんだ。クソの役にも立たない。

 

テレビの音、同居人の声、救急車のサイレン、ぜんぶが耳障りで、ずっとお布団を被っている。

すきなドラマを観ることができなくなった。たった1日2日のことかもしれないけれど、衝撃が大きい。

カーテンの隙間からのぞく光も、今は不快な刺激でしかない。あたたかなおひさまはきっと優しいけれど、拒否反応が出ている。体が痒くなって。

 

昨日の夜は頭痛のお薬をのまなくてはならなかったから、鍋焼きうどんを食べた。

光や音がずっと私に刺さってくる。

限界だった。

頭を抱えて1時間もかけて食べた。無理してでも食べなくてはならないと、母に言われた。食べるということさえ苦痛に感じたのも、久しぶりだった。

むかむかしてきて、いつ飛び出してくるかわからない鍋焼きうどんを、必死に押さえつける努力をした。飲み込め飲み込めと念じて、出るな出るなと祈った。

 

なんともない、という状態って、どんなだっただろう。忘れてしまった。

どこかしら痛い、何かしら頭にこびりついている、眠りについたら夢でさえ私を脅かしてくる。

いつまで続くのだろう。

 

お仕事、どうしよう。

辞めたほうがいいのかな。

その前に辞められるのかな。

辞めるってどうすればいいのだろう。

これは私の人生のうちの、数行の出来事なのだろうか。それとも何ページにもおよぶものなのだろうか。

私は私の尻拭いさえできない。辞めるにしても、続けるにしても、サポートとか援助とか、そういうのをしてもらわなければならないんでしょう。

そういうの、もう嫌だな。

ひとは支え合って生きているっていうけれど、私は誰かの支えになっている気もしないし、これからだって不安だよ。

もちろん、支えたい気持ちはあるのだけれど。

気持ちだけじゃだめなことだって、あるし。

うまくいかないですね。

 

決断とか、相談とか、もう誰にしたらいいのか、どれがいちばん正確なのか、よくわからない。

放棄というものができたらいいのにな。

時々、前のめりな気持ちとは裏腹に、体がもうだめだよと声を枯らして叫んでいる。

 

死ぬことは楽になるのか、考える。

死んだことがないから、考えるのは楽しい。

ただ、そんなに死にたくはない。死に対しての好奇心があるだけで。恐怖心も持ち合わせているから、まだ大丈夫。

宗教的に神様になるとか輪廻するとか、物理的には燃えて灰になるとか煙になるとか、それはわかるけれど、意識はどこに向かうのだろう。

死んだら意識は浮遊するのだろうか。それって地縛霊とかいうものなのか。

そんなのになってお祓いとかされたら嫌だなあと思う。

ただ、私は確かに生きていたよって、どこかに残るといいなとは思う。

跡形もなく忘れ去られて、誰のことだっけって、そうなられるのは寂しいことかもしれない。教科書になんか載らなくてもいいから、誰かに覚えていてほしいな。

 

眠りたいな。

できれば夢はみたくない。

さっきみた夢は、高校生のときの夢だった。

知らない大学に受験するために、小論文の書き方を練習する夢。

学びに対しての欲がまだあるのだなと思った。

もう思いたくない。知れば知るだけ手を伸ばしたくなるものは、今はもう抱えきれない。処理もできないと思うし。

 

文字にしようと思っていたけれど、頭が痛かったり、全然書きたい気持ちにならなかったりで、おさまりが悪かった。

よく書けたな、私。

ゆっくり眠れるといいね。

最近は元気というものが、消費されすぎている気がする。お腹が空いたよと、元気が言っている。

あまり書きたいことが浮かばないのだけれど、かわりにしたいことややってみたいこと、ほしいものがポンポンと浮かんでくる。

きっとたくさんあるから、この際書き出してみようと思う。

 

Lady Gaga、Lorde、Grace Vanderwaal、中島美嘉のライブに行ってみたい。

森博嗣の本を読みたい。

自分でつくったお料理が、おいしいなと思えるようになりたい。

コラージュを画用紙1枚にまとめられる集中力がほしい。

合唱団かアカペラサークルに入りたい。

文字を綺麗に書けるように、集中して練習したい。

お外に出ても、怖い思いをせず過ごせるようになりたい。

髪の毛を綺麗に編んだり、結べるようになりたい。

頭の中で整理してから話せるようになりたい。

そのひとの思ったことには否定せずに、考えたことにはことばを返すことができるようになりたい。

お仕事から逃げることなく、正面からぶつかっていきたい。

まわりのひとに感謝していることを、しっかりと伝えられるようになりたい。

家族のことについてまた問題がでてきたとしても、単純に捉えて、簡潔に考えられるようになりたい。

なにかから逃げたくなったときに、逃げられる場所と道を確保したい。

片付けるということを少しずつ始めたい。

大切にすることと優しくすることは、甘やかすことではないということをしっかりと理解したい。

海外でも日本でもいいから、海や山の近くの旅館に行って、思いっきり泣いて、一晩過ごしてみたい。

お花を習いたい。

 

まだまだでてくるのだけれど、すこし疲れてしまった。また書いてみよう。

この中のなにかを目標に、生きることを頑張っていこうと思えるかもしれない。

たくさんあるから、ひとつ選び取ることから始めなくては押し潰されそうだ。

また考えることができますように。

起きた時間は14時を回っていたころだった。

私の不規則な生活を"病気"ということばで片付けたくはない。だけど、朝に起きて周りのひとたちが、当たり前のようにお家から出て行くことを目にすることは、辛い。それはしっかりとした事実で、泣いてしまうし、その場で固まってしまうこともある。

いつになったら、いってらっしゃいが言えるようになるのか。

上司からのおつかれさまということばに、お先に失礼しますと返せるようになるのか。

ヒールを脱いで、ただいまとベッドに倒れ込めるのか。

先が見えないと、車はワイパーで雪や雨を拭うけれど、私のはきっと霧で、ワイパーで拭おうとしても拭いきれない。からだにずっと纏わりついて、息すらつかせてくれなくなる日がくることを、考えては怯えている。

今日も雪で、私はゆっくりと息をつくことができた。音はせずとも、ただずっとそこに積もるだけ。仏教徒でもないから、輪廻ということばを信じるか信じないかは別として、死んだら雪になりたいなと思った。

ひとからは疎まれるだろうけど、だんだんと暖かくなって雪がとけはじめてきたら、そこから芽を出す生き物がきっととても素敵にみえるだろうから。

 

今日もおやつがニャーと鳴いて、私たちをくすぐってきた。

ニャーと鳴くたびに、うんうん、それでどうしたの?と聞き返すと、ニャーオとか、ニャーとか、いろいろなことばを返してくれる。彼はとても優しいねこだ。

今日は焼いたお魚少しと、キャットフード。最近はどこからかもっといいものを頂いているのか、あまり口をつけない。ただ、ねこ用のビーフジャーキーは別で、ほら、と手を出すとぺろぺろと舐めとって催促される。

あたたかいお湯を用意して、おやつにあげた。最近はあまり飲んでくれなくて心配したけれど、今日はずっと飲んでくれた。

本当は、ベッドでブログを書いているこのときさえも、おやつを暖かな毛布でくるんで、一緒に横になりながらブログを書いていたいけれど、むつかしいのだろうな。通いねこはいろいろなところに"ホストファミリー"がいるのだろうから、そのひとたちが寂しい思いをするのもいやだ。彼のまぬけなあくび姿や、足に額を擦りつけるところは、きっとたくさんのひとの気持ちをくすぐっているだろうから。

 

起きたら髪もとかして、歯を磨いて、お化粧もする。

同じ名前のお友達が、わざわざ私のところまで来てくれるから。

私たちはお互いの名前を呼びあうとき、下の名前で呼びあうからたまに混乱してしまう。そんなことで笑えるような、素敵なお友達だ。

そのためにも今日はそろそろ寝なくてはならない。眠い目をこすりながら雪道を運転することは、私にとっては至難の技だ。はやく寝てしまおう。

おやすみなさい。

今日は何日かぶりの雪で、つんとした寒さが心地よかった。

私には空から落ちてくる綿雪が、丁寧に千切られたまるい綿菓子のように見えて、すこし見入ってしまった。

 

金曜日に、母が車で3時間くらいのところでやるお祭りに行こうと誘ってくれたから、頷いた。

当日車に乗って、少ししたらもう呼吸が浅くなって苦しくなった。

道中必死に祈った。

ゆっくり息をしよう。

頭の中には何にもいない。

祈れば祈るだけ、呼吸は加速して頭の中の何かが増えてパンクしそうになった。

 

私はいくつかの例を知っていて実証してしまっているから、途中のコンビニで降ろしてとお願いした。

歩いて帰るなんて言ったら、怒られるだろうし機嫌も悪くなるだろうから、おじさんかおばあちゃんが迎えにきてくれると伝えて見送った。

何度かおじさんに電話をして、おばさんに迎えに来てもらうことになった。30分ほどで迎えに来てくれて、申し訳ない思いで縮こまった。

こういうときはお互いさまなんだよ、とおばさんは言ってくれたけれど、こんな機会がお互いにあるのなら、私はくたびれて枯れるだろうなと思った。そのひとの優しさが、時々いじわるをして私にささってくることの原因は、私の認知的な歪みのせいだということもわかっている。けれど、いつになったらことばをまっすぐ受け止められるのだろう。

考えては途方に暮れてしまう。

"ゆっくり"なおしていこうねって、どのくらいの"ゆっくり"?

道路の標識、速度制限の看板さえ見当たらないのだから、いまの私には、アクセルとブレーキの加減もよくわからないまま。加速も減速も、自分のさじ加減では測りきれない。

 

昨日の夜中は、また別な短大からのお友達と約5時間のお喋りをしていた。

彼女とは本当に面白い因縁があって、ひとりで思い出してはにやにやとしていた。

前に付き合っていたひととそのお友達、それとその因縁の彼女と私の4人でよくスカイプをすることがあった。付き合っていることはみんなには話していなくて、そのせいか彼がよく、(その私のお友達である彼女のことを)こんな風に可愛い子が彼女ならな〜などとみんなの前で言うから、私が勝手にやきもちを妬いて。一時期勝手にその彼女にはバチバチとしていた。

あのときはごめんねと、素直を謝ることができた自分のことを思い出しては毎回驚いてしまう。

彼女は笑って許してくれた。

付き合っていることにも気づかないで、いやな思いさせて、こちらこそごめんね、と言ってくれたこと。私はそう言ってくれた彼女のこと、いまでも尊敬している。

なんだかここまで典型的なやきもちで、勝手にバチバチして、ふと気づいたときに謝って仲直りできることなんて、これから先はないだろうと思った。だから、私はあのときに謝ることができたことを、これからもお手本にしていかなくてはと思う。だいすきなお友達が、自分のせいで勝手にいないことになるのは、もういやだから。

 

3日間、おやつは姿を見せないでいて、私がおやつと呼んでも、母がねこと呼んでも、ニャーも足音も聞こえなかった。
今日の夜になっていきなり、ニャーオといつもより長めの声が聞こえて、母と一緒にご飯をあげた。4日ぶりに会うおやつは肥えることも痩せることもなく、毛をふっくらさせたまま、私の足に額を擦り寄せてきた。
尻尾の付け根を叩いてあげると、私の周りをくるりと回って、額をまた足に擦り寄せて、ニャーと鳴く。これはきっと"もっとやってもいいんだぞ"という彼なりの"許可"で、それが降りたらまた叩く。
目を細めて足踏みをして、のどをゴロゴロさせているおやつを見ていると、ああ私も"こういう風に"生きてみたかったのかなあ、と思う。

 

今日は今日で、父の買い物にも付き合った。洗剤と食料を買って、携帯の契約をしてあげて、それで終わりと思ったら、またグッピーを飼いたいと言いだした。

私がまだ家族4人で暮らしていたころ、そのお家には大きな水槽があって、ヌマエビ、グッピーネオンテトラなどの生き物と、のんびりゆらめく水草のきらきらとした世界が居間に佇んでいた。軒先には鉢がたくさんあって、山野草オリヅルラン、小さなスミレが咲いていた。たまに迷い猫や犬まで遊びに来るようなお家だったから、常に賑やかだった。

震災のときに水槽用のヒーターが止まってしまって、水槽の中身は空っぽになってしまったらしい。

私は小さいころそれに囲まれて育ってきたから、なんだかうれしい気持ちになった。

新しくした携帯にはちゃんときれいに映るカメラがついているみたいだから、今度見せてもらおう。

 

ここ1週間は楽しいことのほうが多かった気がする。

いやな気持ちになることもあったし、泣いてしまうこともあったけれど、笑っていた時間のほうが長かったと思う。

ペースは掴めているようで掴めていない。

闘病生活が長くなることが多いと言われる病気だけれど、その中でも1回でも笑って楽しい気持ちになれるのだから、救われている。

救いとかペースとか、忘れられるようになったら、きっと、本当の意味での病気とのお別れになると思う。

それがいつになるかはわからないけれど、今日はのあのわでも聴いて、すこし楽しい夢を期待して眠ることにする。

一昨日は午後から短大のお友達と会って、おしゃれなカフェでトーク、しゃぶしゃぶ屋さんでもトーク。場所を変えてずうっとトーク。私は二会場ともレッドカードを出された。

ピュアな女の子同士での会話に、下ネタは厳禁なんですね。反省しまーす。

 

短大在学中の2年間という短い間だったけれど、お世話になった電車で、お友達に会いにいった。お気に入りのうたを聴いて、こころがときめくという感覚に浸りながら。

Grace Vanderwaalのアルバムは短大のときに持ち合わせてなかったけれど、いまはもう、とびっきりのお気に入り。何年も前に聴いても、彼女のうたは私に響いていたと思う。彼女のデビューというか、名前が知れ渡ることになった"I Don't Know My Name"なんて、きっと聴いた途端にわんわん泣いていただろうな。

 

雲が多くて太陽はあまり顔を見せてくれなかったけれど、最強寒波の過ぎ去った後のちょっとした晴れ間だったのかもしれない。運転係のお友達は、「天気も最高!今日はドライブしてカフェに行こう!」と切り出した。

これ以上の言葉が見つからない。彼女は最高にポジティブで、私の古いアメリカ像でいう"イカしたクールな奴"だ。

同級生はいま何をしているのかとか、同乗しているもうひとりのお友達の恋の進捗とか、話の種は尽きなくて。時間は意地悪だから、すぐにあたりを暗い夜にしてしまっていた。

カフェを出てはすぐにしゃぶしゃぶ屋さんに向かって、食べ放題!なんて言葉に目をキラキラさせることができるのも今のうちだろう。年が明けて初めて会ったから、乾杯はあけましておめでとう。笑いながらグラスを掲げた。

つい先日24歳になったお友達A、運転係3月生まれのB、ともに3月生まれの私の3人。やっぱり恋愛とか結婚とか、出産の話も出てくるもので。"いつの間にかできる当たり前で自然なもの"だと認知していたものは、その前にある壁をなんとか乗り越えたから、"それ"になるのだなと、しみじみと感じた。

当たり前にお母さんとお父さんがいて、私がいることだって"当たり前"と思っていたけれど、いまの私がその"当たり前"をすぐ作り出せるものなのか考えたら、四色問題並みの難問。定理もある、解明されているであろう、難問。

短大のときに授業を抜け出して回転寿司なんて行って、通学路で転んで笑っていた私たちが、こんなお話までするようになったんだね。成長と老いは、同時に襲ってくる幸せと恐怖だね。

むつかしいお話をできるから大切にしたいお友達、という線引きではないのだけれど、ふざけた話題にも真面目に、真面目な話題にもふざけて話し合えるお友達は、一緒に歳をとりたいなと思った。

 

お仕事をしていること、何かしら社会と交わって生きていること、やっぱり眩しいです。

目眩がして、すぐに目が潰れるほどに。

私もなんとかしてそこに戻りたいな、と思うけれど、なかなか上手くいかない。その前に何枚か壁があるから。割っても割っても壁があって、手からは血が出るだろうし。

"心配性で不安に陥りやすい"ということは、きっと"欲張り"なのだろう。目の前の安全だけでは安心できないから、その次、その次の次、そのずっと奥、死の一歩手前まで考えて対策を立てようとする。

杞憂にうなされて生きていくのは嫌だなあと、うっすら笑えるような元気も出てきたから、今の私にはギリギリの合格点をあげることにしよう。以前ならきっと頭を抱えて、死ぬことをはじめとする、黒くてベトベトしたものに溺れていただろうから。

なんだか"ハウルの動く城"を思い出す。自室にたくさんの魔除けをつるして、おまじないをかけて、ベッドに埋もれているハウル。それだけの予防線を張らないと、心配と不安と恐怖に押し潰されることも、いまの私なら理解できる。

 

いやなものの波は少し引いてきた。

またくるかもしれないなんて、"無駄"なことを考えてしまうことにも笑えるけれど、現状に満足できる感性をほんの一握り取り戻したから良しとする。

今日の文字はとても綺麗だ。

幸せは文字を綺麗にしてくれる、きらきらしたお星さまだ。

文字もきっと喜んでくれている。

私はそれがちょっとうれしい。妄想でも。

 

やっぱり夜と朝の間は、頭が比較的クリアで、文字も浮かびやすい。

今日はたくさん書いたから、自分を労ってあげることにする。

おやすみなさい、私。

 

昨日のことがひと段落して、私もだいぶ楽になったようだ。

いつもは重くずーんとして、漬物石のようにビクともしないで冷たくそこにあったのに。今日はすこしだけ軽くて、羽が生えてるんじゃないかと思えるほど体が楽だった。

いつもこうあってほしいなとほんの少しだけ思うけれど、後の反動が怖いから、あまり高望みはしないことにする。

 

このブログも始めて4週間くらい。こんなに文字が浮かんでくるとは、自分でも予想だにしていなかった。

きれいな言葉とか目を引く文章を書くことは、あまりできていなかったと思うけれど、頭の中がだいぶ片付いたと思う。以前と比べると鮮明に、目の前の風景が見えるようになった。小さいけれど、一歩前進したかのように思う。

素直にはならないけれど、私はきっと、いまの私を褒めたいのだろうな。

いまは言葉にはしないけれど、あたたかな言葉が浮かんできたら、ここに書いて私にプレゼントしよう。

 

朝に眠ったから、目覚めたのは午後だった。

起きたら母がカレーうどんを作ってくれた。

頭の動きがまだ鈍くて、すこししょっぱいのが食べたいと言ったら、作ってくれた。

大きなわかめと、小さい干しエビの天ぷらののったカレーうどん

私が食べるときはいつも白出汁でつくるのだけれど、母はいつしか鰹出汁の濃い麺つゆで作るようになった。きっとこういうところで、私の気持ちに小さなひびが入ってしまうのだろう。わがままで笑ってしまうのだけれど、嘘でもない、しっかりとした事実。

小さいころはこの濃い麺つゆでつくっていたこともあった。そのころはまだ、母と私の間にそこまで大きな溝ができていなかったと思う。いつからか、私はひとりで残ったカレーでカレーうどんを作るようになったんだ。白出汁で、いろいろな味を削いで食べていたのかもしれない。

 

そういえば、母と話し合うことを躊躇っていた私の背中を押してくれたおばさんに連絡をした。

話すべきことはぜんぶ話したよ。背中を押してくれてありがとう。と、長い文章ではないけれど、こころを込めて送った。

頑張ったね、とたった一言のお返事だったけれど、私にはそれがうれしくてうれしくて堪らなかった。

本当に勇気を出して、涙を流して、最低限かもしれないけれど、話すべきことを後回しにして逃げていたから。それを真正面から受け止めて、背中を押してくれるおばさんがそばにいてくれてよかった。

私はこれからもなにか壁にぶつかっては痛い痛いと泣いて、壁の前でじっと体育座りをすることもあるかもしれない。だけど、それでもいいよと優しく背中をさすって、もう少し元気になったら立ち上がってみようねと、自分に声をかけられるようになりたい。

 

おやつにも会えて、魔法のニャーも聴くことができた。

彼は私に何度か擦り寄って、背中に飛び乗る準備をしていたけれど、私はなんとかそれを阻止して、ごはんを食べる彼をみつめていた。

つんと刺さる寒さの中、ふっくらと丸みをおびた愛らしいからだは、触らずにはいられなくて。くびからおしりのつけねから、いろいろなところをうりうりと撫でては、あたたかさを感じていた。

それに、おやつをあげることもできた。

ぺろぺろと私の手を舐めては、おやつの余韻を楽しむ彼は、いつ見ても可愛くて、抱きしめたくなった。

 

調子のいいうちに友人に会うため、起きたらまた予定をいれた。

とは言っても、お誘いを受けたのだけれど。

雪でもいいから、また笑えるいちにちになりますように。

おやすみなさい。

今日が終わる。

またいちにち生きのびることができた。

 

今日は本当に"いやな日"でもあり、"いい日"でもあった。

私はいちにちを通して泣いていたけれど、頭の中を整理して、話すべきことを話し、伝えることができた。どのように受け取られたのかはわからない。けれど、少なくとも、ゲームもせずに私の言葉ひとつひとつに頷いてくれた。

あんなことは初めてだ。

母が私の言葉に、あんなに真摯に耳を傾けてくれたことは、初めて。

きっと私がただならない雰囲気を放っていたのかもしれないけれど、話が逸れてまたルート修正しようとしても、なにも言わずにうんうんと聴いてくれた。かたちだけかもしれない。でも私はその姿勢で言葉を拾い上げてくれて、うれしかった。

 

ことの顚末は考えれば考えただけ、複雑に入り組んでいる。錆びた細い鉄パイプで出来た迷路のように、それからのぼる蒸気はずっとふきっぱなし。きっと出口はどこかにひとつだけあるのだけれど、私はまだ見つけることができていない。

きっとひとつ解決したら、もうひとつはバッドエンドになってしまう。それはきっと"犠牲"というものになるのだと思う。

選び取るときは"価値"と"犠牲"を天秤にかけて考えるしかない。私は今日、なにかを"犠牲"にしてこの"価値"を得たと考えている。時間が過ぎゆく中でようやくその"犠牲"を知ることになる。

 

久しぶりに母のつくったお料理を食べた。

結局ひとりで食べていたけれど、弟と一緒に食べたときのカレーと同じ味がした。以前よりすこし辛かったけど。

あたためかたを間違ってすこしぬるいカレーだったけれど、久しぶりに懐かしくおいしいなと思った。カレーなんていつぶりだろう。食べてから思い出した。カレーうどんは好きなのだけれど、カレーライスというものはあまり好まないこと。

私の舌は唯一といっていいほど、私の中でも個性を持っている。食通と言えるほどではないけれど、幼い頃からの感性がブレることがない。芯のある感性がたったひとつでも私の中にあってよかった。

たとえば、お店で食べたものは大体お家でも再現できること、なにが入っていてなにがその食べ物をふくよかにさせているのかが想像する力があること、とか。テレビで絶対的な味覚をもつ有名人として紹介されるひとには、負けてしまうかもしれないけれど、私の中でもブレることのないところがあって安心することができた。

 

何日ぶりだろうか、おやつにも会うとかができた。

彼は私の手をくんくんとかいで、あくびをした。寝ているところごめんねと言いながら、私は久しぶりに、その冬に備えたふかふかの毛にふれた。あたたかくて、優しくて、甘えたくなってしまったけれど、おやつの睡眠の邪魔なんてしていたら、もう愛想尽かされるかもしれないし、すぐやめた。

起きたらまたおやつに会いたい。今度はごはんもあげたいし、可愛い鳴き声を可愛いなと思える時間がほしい。

 

今日はもうHPが0なので、シャワーを浴びて、横になる。

話し合ってからずっと寝ていたから、眠れるのかはわからないけれど、からだがもう縦でいられる時間は少ないよと伝えてきている。

おつかれさま、私。

さようなら、私。