3歳
はじめてブログにタイトルをつけた。
9月9日は、はじめて心療内科へ足を運んだ日。身体症状が一気に出たのは8月1日だけど、こころとか精神っていうものが原因なんじゃないのか、とカウンセラーの方に指摘されて病院へ行ったのがこの日。ちょうど2年前。
今日から3年目になる。3歳だ。
はじめて行った病院は白くて、デスクに置かれたドライフラワーや、壁に掛けられた写真が、病院という場所のソレを紛らわすので精一杯な感じだった。
待合室には雑誌を眺めているひと、手元をじいっと見詰めているひとや、隣のひととお話ししているひとがいた。ぱっと見た感じは、病院の待合室という感じがしない。ただそこにいるひとたちの顔は、"そういう病気"を感じさせるものだった。顔色や、落ち着きのなさや、その逆で死んだように動かないひと。
初診予約の用紙記入をしている私を見るひとは、きっと何人かいたと思う。スーツを着て、ヒールを履いて、涙でぐちゃぐちゃになったメイク。鼻水をかみすぎて真っ赤になった鼻。違和感を覚えるところは他にもたくさんあったと思う。
それから2週間くらい会社をお休みして、診察日の連絡がくるのを待っていた。
お医者さんと45分くらいお話しして、"適応障がい"というものの可能性が高いと言われた。説明を受けて、効き目の穏やかな漢方薬を処方されたことも覚えている。
今日は調子が悪くてもブログを書こうと思っていた。私には大事な節目だから。
お仕事をお休みしたり、時短勤務にしてもらったり、やっぱりだめで休職したり。病気というものは怖いなあ、と思った。処方箋や診断書が視界に入るたびに、気分が落ち込んだ。私って病気なのか、と驚いた日もあった。
秋田の病院へ転院するときには"双極性障がい2型"とも書かれてあって、驚きを隠せなかった。お医者さんに言われたこともなかったし。
秋田に帰ってからは、正直あまり思い出せることがない。書き留めたものやブログを読み返さなければ、何があったか詳しく思い出せない。
毎日疲れたなあと思うことが多くなった、のは確実。何に疲れているのかはわからない。
ここで生きていること、ここで生きていくこと。考えると何から手をつけたらいいのかわからなくて、どうしようにもできない。
働いてお金を頂いて、私を生かしていくことは理解できる。ただ、できるのかが問題で。私はどこまでが可能なのかすらわからない。無理も何もよくわかっていない。今まで無理に無理を重ねて、それがたぶん知らないうちに、大きく立派なミルフィーユになった。私は無理なんて思ってなかった。思ったこともなかった。どちらかと言えば無理なんてしてこなかった人生だと思っていたし、逃げてばかりで、何かにぶつかっても大きく回り道をして無駄な汗をかいていたと思う。今だに自分でかけていた負荷は思い当たらない。
だから周りのせいにしてしまうのかなあ。実際周りはすごく刺激的なものが多かったから、ぜんぶ無くなってしまえばいいのにな、と思うことは多かった。私何か悪いことした?なんでこんなに嫌な思いしなくちゃいけないの?って。悲劇のヒロインぶっていることも多かったかもしれない。ヒロインでなくても、ずっと悲劇の渦中にいたよな〜、と思う。被害者ぶってばかりでごめんなさい。
今は"抑うつ神経症"とかいう"気分変調性障がい"で、私はそれに属していることになっている。文字だけ眺めると、気分が変調することなんて当たり前のことだよね、なんで障がい?と思うこともしばしば。
ただ、変調の度合いが悪い薬をキメているほどの落差で、自分という存在をどこに落ち着かせたらいいのかわからない。ハッピーでハッピーたまらない日もあれば、死にたさでいっぱいいっぱいの日もあって、真ん中にいることがほとんどない。
お薬は前ほど変わっていないけれど、足もとがふらついたりして出勤できない日があった。昨日、金曜日のこと。ただ気分は悪くなかった。精神というか、脳機能の働きが鈍っているって声を大にして職場の方にも伝えたいけれど、もう任期満了だし、やめよう。
書きたいこともあまりなかったけど、書きたい日だったから無理やり書いた。
地震の震源地だったけど死んでないし、ミサイルも飛んできてない。生きてる。
真ん中にいられる私になりたい。
せめて自分がこれから調子悪くなるかもしれない、という予感を感じられるようになりたい。頭痛の予兆がわかってきたのは、はなまる。気分が掴めない。掴めたら病気でも障がいでもないか。
小さい頃からクリームソーダが大好き。さくらんぼはなくてもいいから、細長いマドラーのようなスプーンと、くびれたグラスにどきどきしたい。大好きな喫茶店に、人目を気にせず行けるようになりたいな。
誰かや何かに怯えて暮らして生きたくない。ため息をついて、今日もあれができなかったと泣くばかりの日が、少なくなればいい。
3歳のお誕生日、おめでとう。
はやく、安らかに眠ってね。
私の気づかないうちに、静かに眠ってね。
■
土曜日は午前中に起きて、お昼は父のお家でごはんを食べた。
押入れの奥から埃をかぶった、私と弟の保育園時代の"れんらくちょう"を見つけた。母が毎日保育園の先生へ、私の体調や自宅での生活を事細かに書いていたようだった。幼少期の私はとても面白かった。覚えていることは多い方なのだけれど、毎日プールに入りたがっていた私、頑なに野菜を食べたがらない私、焼き芋会をパーティと呼んでドレスを着て行こうとしている私が、そこにはいた。
帰ってきたのは17時頃だったと思う。急に頭が痛くなった。横になっても痛みは治らなくて、呻き声をあげたりあまりの痛さに喘いでいた。プリンを無理やり胃に押し込んで、処方されている偏頭痛薬をのんでも治らなかった。1時間は汗をかいて歯を食いしばりながら、フローリングの上で暴れていた。弟はそんな私を見ても、テレビを観てもいいかと聞いてきた。20時をすぎても痛くておばあちゃんに電話をした。2回かけても繋がらず、渋々おじさんに電話をした。奇跡的にお仕事がちょうど終わったところだったらしい。
息も絶え絶えお薬手帳などを、手を震わせながらまとめていた。おじさんが迎えにきて、後部座席に乗せてくれた。
私の手には力がもう入らなかった。これは2度目の経験で、頭の痛みもお医者さんに診てもらったところで治らないことも悟っていた。ただ痙攣して体を弓形にさせて、涙と鼻水を流しながら声も出せずにいるところを弟に見られたとしても、きっとどうこうされずに死ぬなと思ったから、おじさんに連絡した。
多分お医者さんに診てもらっても、心療内科に通院していてお薬ものんでいることを伝えたら、心療内科で診てもらってと言われるとおじさんに伝えた。突発的に頭やお腹が痛くなったことがあって救急車に乗って病院へ行っても、痛み止めを少し点滴するくらいだ、と。それをなぜか私がODとかわざと具合を悪くするためにお薬をのんだと勘違いされた。
病院でも手が震える、頭が痛い、お薬の服用時間、こういった経験の有無を看護師さんに伝えた。待合室のソファでは、くたびれたぬいぐるみのようにうな垂れていた。
診察はやっぱり思った通りで、優しい効き目の鎮痛薬を処方される程度だった。
地獄はそれからだった。
弟と私しかいないお家に帰らせるのは心配だからと、おばあちゃんのお家に泊まることになった。
お邪魔しますと頑張って声を出したら、おばさんが怖い顔をして私を睨んでいた。開口一番、もっと自分を大事にしなさい、と震える声で私を叱った。私は事情がわからずぽかんとしていたら、おじさんが、具合を悪くするためにわざと何かお薬をのんだんだろうと言ってきた。私は頭を抱えて、違う違うと説明した。納得はしてくれたけれど、こんなことになったら母親たちが普通は帰ってくるだろ、となった。母親たちは土曜日から東京に泊まり、日曜日から約3ヶ月の船旅に出る。でも娘が2週間以上お仕事をお休みしていて、弟も就職して家から出るのに、何ヶ月も前から予定を組んでいた、という理由で家に戻らないのはおかしいだろう、とそんなごもっともなお話だった。
いろいろお話をした。ごもっともだ。心配もしてくれている。迷惑もかけている。ごめんなさいとも思う。
でも、疲れていた。
病気を治してお仕事をして、親に見切りをつけて、ひとりで暮らすことがいちばんじゃないか、という結論に至った。そうしたいのは山々だよ。
何を話しても、どう返ってくるか想像できて、涙が出てきた。終始泣いていたのだけれど。
最後の最後には軽々しく自殺したいなどと言うなと言われた。もう泣くしかなかった。
お話は12時を過ぎても終わらなくて、痛みも結局治らなかった。眠りについたのも多分空が白んできた頃だった。
おじさんから、朝はいとこを起こす役目を振られたから、6時には起きていた。ずうっと死にたかった。
また頭が痛くなってきて、朝のひかりやテレビの音が刺さってきて、痛みを鋭いものにさせていた。ブランケットを頭から被っていたら、別の部屋で横になってなよ、とおじさんに言われた。もう何が何だかわからなかった。
日曜日のお墓まいりは結局行けなかった。頭が痛かったから、弟とふたりでいる家の、自分のベッドに死んだようにじいっと横になっていた。
日曜日の夜は3時を過ぎても眠れなかった。案の定、月曜日はお仕事に行けずじまいだった。
火曜日はお仕事に行った。死にたさが拭えなかった。うっすら笑みを浮かべながら、2週間ぶりに外界のひとと会話をした。指先までもが気怠かった。ぜんぶが嘘だといいのになと思った。
今日、水曜日はお休みをした。
眠っていた。眠ることでしか避けきれないから、涙が出てくる。
起きたら木曜日で、兼任しているもうひとつの職場に行かなければならない。どういう顔をして行けばいいのだろう。
にこにこしているのもおかしい気がするし、血の気の引いたこの顔で、すみませんでしたと頭を下げていかにも病気ですという顔をしているのもおかしいと思う。
3ヶ月前は病院で太ったでしょ、と言われて10キロ太ったことに人間としての機能不全を覚えたけれど、一昨日はかったら15キロ減っていた。そりゃあ食べたり食べなかったり、泣いたり吐いたり出したりしてるしなあ、と思った。
このまま消えて無くなればいいとさえ思った。
ゼリーやプリン、ちいさいかっぱえびせんで毎日過ごすことにも慣れた。
お友達が来るときは食べる。きっとおいしい。大丈夫。
痩せても太っても文句を言われるなら、最初から自分を無かったことにしたい。
夏がこんなに辛いなんて思わなかったな。
いろいろズレたけれど、とりあえず明日が不安。絶対、お仕事に行こう。することきっとないけど。お仕事に行ったら自分をちょっと褒めてあげられる。
褒めたらきっと、生きてもいいよって許せる。
■
マリー・アントワネットを観た。もちろん数回にわけて。ヴェルサイユ宮殿のシャンデリアや、毎晩上手くいかない夫婦の営み、大きなお魚に刺さった串に更に海老が刺さったお料理を観ながら、うわあ…と様々な気持ちを含ませながら。
ソフィア・コッポラの世界って、きっととても好きだ。オートクチュールドレスの布を選ぶシーンなんて、女の子の永遠の楽しみがぎゅっと詰まっている気がした。シェルで出来た桜色のチップ、高く積まれたシャンパンタワー、小鳥の飾りをたくさんつけたユニコーンの角のようなヘアスタイル。
私は少し枯れているから、カーテンみてーな柄だなあ、と思ったりもした。たぶんもう少し元気だったら、きゅっと引き締まったコルセットと少し踵の低いミュール、ふわりと膨らませたスカートに、胸が踊っていたと思う。
最近はずっと具合が悪かったから、映画を観ることも後ろめたい気持ちでいっぱいだったけれど、いま3回目のマリー・アントワネットを観ている。少しずつ奔放に生きていけたらな、と思いたいからだと思う。
今度の金曜日からはお友達が来てくれる。
久しぶりにちゃんとお料理をつくる約束をしているから、少しでも具合が良くなればなと、自分でもお祈りしている。簡単なお料理さえ、私に作ることは結構むつかしい。頭がついていかなくて、それにショックを受けて打ちのめされてしまうから。だから少しでも、気持ちが持ち直してくれたらな、と思っている。
水曜日からはご近所のお友達が関東から帰省して、会いに来てくれたりした。かき氷を食べに行ったり、花火をしたり、久しぶりにおしゃべりしたりした。気持ちが落ち着かなくて、変なことをお話ししていたらごめんね。
でも直接ぐちぐち嫌なことを話す元気があると自分で確認できた。
久しぶりの運転もギリギリできた。怖い思いさせてたらごめんね。謝ることばかり。
何日か後から約3ヶ月間、私はひとり暮らし。具合が悪くなったらどうしようと思うこともあるけれど、ひとりって気楽かなとちょっと思ったりもする。
こんなことを書くと見たひとはびっくりするだろうけど、その間に死のうかなあと思ったりもする。言い訳に聞こえるかもしれないけれど、それくらいしんどいもの。
こんなこと書いておいて、きっと死なないんだろうと自分でも思うけれど、本当に死ぬのならどう死のうかと考える。じわじわ死ぬのは嫌だなあ。後悔する瞬間さえなく死にたい。
周りのひとにぐちを言ったり、周りのひとから心配されたり、母親たちのことを言われることにもう嫌気がさしているもの。自分で言うのも疲れるんだ。言ってしまうから、申し訳ないけれど。言われてなくても思われてなくても、そう想像してしまうのが常で、疲れる。
この感情に限界があって、それが限界に達したら自動的に死ぬシステムがあってもいいのになあ。みんなよく生きてるなと思う。お疲れさまです。
音楽を聴くことはまだ疲れる。好きな音楽を嫌な思いをしながら聴きたくないから、眠れない夜も外から聞こえる草が触れ合う音を聴いている。窓を開けていなくても、さわさわそよそよ、涼しい音が聞こえてくる。
8月も半ばだから、きっともう少しで秋がやってくる。おいしいものをおいしく食べて、読みたいものが好きなだけ読めて、涼しい風にも恥ずかしい思いをせずにあたれるようになりたい。
また生きていたいなと思えることがあればいいな。
■
じめじめとした長い梅雨があけた。すぐそばから台風やら温帯低気圧で、また髪の毛が外側へ遊びに行っている。気圧なのか他のせいなのかわからないけれど、頭の痛い日も多くて嫌になる。
おやつは全身がしっとりとしていて、尻尾の先までなめらかで気持ちいい。するすると撫でていると、いちばん好きな尻尾の付け根でにゃーにゃーと催促される。魔法のにゃーだから、私は素直に尻尾の付け根をぽんぽんしている。
相変わらずの日々が続いている、と言いたいけれど、気持ちの落ち着かない周期がまわってきている。
最近は眠りが浅いのか、毎日夢をみている。夜は眠りにつくまで時間がかかって、眠っていても明け方に何度も目が覚める。体調も悪いから、午前中横になってうとうとしては夢をみる。はずかしながら、結構な割合で淫夢。したこともないような、びっくりするほど過激で痛いようなやつをしていたりする。眠っている最中に、何か変なことを言っていないか不安で仕方がない。今日の日中みた夢は、今までの夢の中でもいちばん過激だった。寝ても覚めても頭の中がはしゃいでいるから、ちっとも休まらない。夢から醒めてもどきどきしていて、からだがジーンと熱を帯びている。
今日は過食気味で、おにぎりとスパゲッティを食べた。この1ヶ月の中でいちばん食べたと思う。胃が重くて横になるのが辛い。縦になっているのも辛い。ぜんぶ吐き出してしまいたいな、気持ち悪いな、と久しぶりの感覚。背中をさすってほしいな、と久しぶりに思った。わがままだなあ。
今日は診察の日で、病院にも行った。珍しくメモは見せなかった。主治医に見せたところで、何も変わらないと思った、が正しいかもしれない。目についたものを少しカルテに記すだけだから、毎回の変化に気づかないでいると思う。私は度々重くなった症状をメモしているけれど、主治医は気に留めてくれない。私が話しても、気にしないことです、と言われる。気にしないことができたら、どれだけ楽か。
同情してほしいわけでも、増薬してほしいわけでもない。正確な判断をしてほしいだけなのに。
右目の奥が1日中痛い。瞼の痙攣と付随してズーンと痛い。これも、主治医に気にしないことです、と言われた。ロブのんで黙って横になってます。それでも痛いから、訴えているのだけれどね。
会いたいなあと思っていたひとから、連絡が途絶えてしまった。
そのひとからきていたラインを夜中に開いてそのまま閉じて寝てしまって、1週間以上経過していた。気づいたときは顔面蒼白。きていたラインを忘れて閉じてしまっとこと。それに会いたいけれど体調が悪くてそちらまで行くことができずにごめんねという旨を添えて送信した。未読のままだ。まるで片思いしているようでむずむずする。
会いたいなあ。
目を瞑ると、また淫夢をみるかもしれない。私はそこまでいやらしい人間だったのか。今日は淫夢の話しかしていない気もするけれど、なんだか少し元気になれた気もする。
■
先月の診察からずうーーーっと憂鬱で、はあ死ななきゃ、やっぱり死ななきゃ、と考えることが多かった。そんな気分や考えはまるで坂道を転がるようにびゅーんと加速して、食事といえばお薬のような生活を送っていた。
頑張って頑張って病院に連絡して、別な先生だったら、ということで診察してもらった。
病院に着いてからは終始足元を眺めていた。誰かと目があったりなんかしたら、また涙が出てくるし、悪口を言われてるんじゃないかって、不安になってしまうから。いろいろなものに耐えていたら、私の番号が呼ばれる前に、誰かが自動販売機で飲み物を買った。私はその飲み物が落ちるガタンという音と、飲み物を取り出した時のフタの音にびっくりして、怖くなって大泣きした。30分くらい涙を拭いて鼻水をかんでいたら番号が呼ばれた。
いつもは血圧と脈をはかるけれど、すぐに診察室へ通された。先生はこっちに転院してから突然減薬して、希死念慮に襲われ自殺企図したときに診てもらった先生だった。どうぞ、と一声かけられてなにも言えないまま椅子に座った。
私はいつものように、あーうーと唸って泣きながら打ったiPhoneのメモを差し出した。
そうしたら、先生はいっかいiPhoneを手にとって、ちょっと使い方がわからないから、先生質問するからお話ししてみてくれる?と言われた。とても驚いた。そんなこと言われたことがなかった。
とりあえず、前の診察からお仕事に行けないことが多くて、と話し始めたら涙が止まらなくなった。ひとつひとつ打ったメモを見ながら、必死に言葉を繋げようとするけれど、涙と呼吸が邪魔をした。
どうして涙が出てるの?どんな気持ちで朝起きる?いまのお家には誰と住んでるの?と、手元に全部答えが書いてあるカルテを見ながら質問してきた。どうしてわかるのに訊くんですか?とは聞けなかった。
一通り質問が終わったら、体調が悪いのは脳内物質がああで自律神経がこうでという話をされて、とりあえずいつも飲んでいるお薬の一回り小さいものを1日2回服用してくださいと言われた。
これで元気も出てくると思うよ、と言われた。気づいたら、毎日死ななくちゃと思うのもなくなるんですか?と聞いていた。それはなあ、と先生は笑っていた。でも死なないって約束しようと言って、小指を出された。私はそこでようやく怒りを覚えた。なんでこいつと約束してまで、毎日意味もわからないまま死にたいという気持ちを持っていきなければならないのか。どうして死にたい気持ちは心療内科医に笑われなければいけないのか。ぼろぼろ泣いて、辛くて、勇気を出して診察をしてもらって、笑われた私は怒っていた。小指には薄ら笑いしてしまった。約束したら死なないんですね、と涙を流しながらゆっくり笑った。
帰ってもぼーっとして、泣きながら横になった。すこしだけ食べろって言われたから、確かなにか食べて、もらったお薬をのんで夜を過ごした。
次の日は目覚めたら、幾分か楽だった。でもベッドから起き上がることができなくて、今日着る服を見つめながらぼーっとしていた。案の定今日も行けませんと、すみませんと、メールした。
土曜日は父をお買い物に連れて行った。調子はそんなに良くなかった。今日(日曜日)はひとりで夜を過ごさなければならなくて、ぜんぶの窓に鍵をして、ドアガードもした。
起きたらお仕事に行く日。月曜日。
体調とか気持ちの調子とか良くても、ただただ行きづらいのは久しぶり。
お洋服の用意、しなくちゃなあ…
呑気にブログを書いていたら日付をまたいでいた。
行きたくないな。
悪口言われてる気が、もうしている。
自分を守る手段をどのように行使していくべきか迷う。
■
お仕事はここ数日行っていない。ベッドから出られない、お化粧ができない、涙が止まらない、という症状が出勤前に出てしまう。
そんなのやる気がないだけでしょ、と思われても仕方ないし、実際にやる気はないのだと思う。お仕事に対して向けるやる気は、しっかり1日生きるということのみにだけ向けなくてはならない。生きても生きても、明日が辛い。何も見出せない。
今日は行きたくなかったおばあちゃんのお家に行った。
いろいろあって、私のお雛様と弟の兜を預けているところから持ち出さなくてはならなくなったから。今いるお家には置く場所がないから置けないという理由で、おばあちゃんのお家に置かせてもらわなければいけなくなった。母は自分で連絡さえしないから、私が電話でおばあちゃんに事情を説明して向かうことになった。
"置くところがない"というのは本当らしくて、ダンボールに入れて、外に出されてあった。雨が降ったらいけないから、今日中にやっておいてと言われたけれど、すごく悲しい気持ちになった。
おばあちゃんはメールができないから、ここのところ避けていた電話をした。具合が悪いことも察したのか、用件だけ話してすぐに車に乗った。
お雛様と兜をおばあちゃんのお部屋にしまって、少し話した。弟の就職が決まって9月にはこのお家を出ていくこと、母親のこと、私のこと。耳にたこなのだけれど、おばあちゃんには全部お母さんのせいだな、と言われる。でも、最近の私はそう思わないことにしている。母親のせいにしても、全部私に跳ね返ってくるから、私が何にもできないから、ということにし始めている。その方が楽だから。
私に、これからどうしたい?と聞いてきたおばあちゃんに、早く死んでしまいたい、と訴えた。死ねないから死にたいのだと思う。死ねたら死にたいとは思わないのだろうな、とようやく気付いた。
私がこのお家から出て行かなくてはならないから、一緒に暮らそうかとも言われた。おばあちゃんも私が心配なのだと思う。
だけど、私は毎日誰かに死んだか死んでないか、ご飯を食べるか食べないか、元気があるかないか、確認されたくはない。そんなの病院と変わらない。そんなのおばあちゃんにしてほしくない。だからわがままだけれど、ひとりでひっそり暮らしたい。もうひとつわがままを言えばおやつと暮らしたい。今日だって私がお外で泣いていたら、彼はただただ私の脚にしっぽを巻きつけて、毛繕いをしていた。そんな風にただそこにいてほしいだけ。
憂鬱と消えたさ、希死念慮、過食・絶食の交互にやってくるやつ、味覚の麻痺と音に対する恐怖、被害妄想が尋常じゃない。これを異常と言わずして何を異常と言うのかというくらい。
さすがにこれはと思って、いつものお医者さんじゃないけれど、明日診てもらうことにした。お薬が増えたとは言え、これが3週間続いているからいい加減私がすり減ってなくなりそう。
もともとの私がどんな色でどんな音なのかわからない。私はどんな風だったのだろう。
期待されてきたようにやってきたところもあって、私は私がわからない。
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なんだかつらい。なんだかしんどい。なんだか悪口言われている気がする。まだ追われている気がする。そういった類のもの、ここ1週間でぐんと増えた。
びっくりするほどにどうしたらいいのかわからないし、決まってお腹が痛くなる。
きっと変なひとだなあと思われているのかな。
基礎体温も測ってない。
なんにも私にプラスになる気がしなくなってきた。
お仕事行けば確かにやったぶんだけお金はいただけるけれど、わけわからないくらいものをくちに入れなければ気が治らない。
とりあえず9月まで、9月までなんとか持ちこたえてね私。
ひとりぼっちになるこのお家で首を括りたい。
私は出来損ないで、なんにも残せなかったから。
どうにかして死ななくちゃと思う。
生きていることすらとんでもなくわがままなんだ。
素敵な気持ちも、握りつぶりたくなる感情も、ぜんぶ知らないまま。真っ白な雪になりたかったよ。
はるかも病気が治ったら、元気に働けるって、おばあちゃんにも言われたけど。もうわかんないや。ごめんね。
元気にしてくれると思っていたんだよね。私はいつも、みんなを笑わせることが得意だったのかな。
でもね、私が受け取る言葉はほとんど全部が鋭い針だったよ。血が滲むの。あははって笑いながら、針を抜くことも、もうできないの。